コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 俳優ブローカーと呼ばれた男【その四】   Text by 木全公彦
新東宝の撮影所長
『叛乱』のヒットに先立ち、日活と契約した星野和平が、新国劇とユニット契約し、新生日活の滑り出しを大いに助けたことは、前号書いたとおりである。だが、それも長くは続かなかった。星野は日活の契約プロデューサーを1年ほど務めると、1955年2月、新東宝の撮影所長に就任する。田辺宗英に代わって新東宝の社長に就いた服部知祥が傾いた屋台骨のテコ入れとして、早撮りの渡辺邦男監督を取締役製作担当(製作本部長)に、星野は取締役撮影所長として招いたのである。

元新東宝の取締役であった辻恭平は、親しみを込めて星野の人柄をこう描写する。〈金の話――ギャラと質屋の世界を経てきたのだから、これが不得手のはずがない。この話になるとすぐに机の引き出しからソロバンを出す。それが八百屋のおやじが店さきで動かしている2センチもある大玉のあれだ。/女の話――最も好み、練達を誇るところで、この話ではやはり机の引き出しから大人のオモチャを出し、満面に笑を浮かべて貸してやると言う。引き出しからすぐに出るところをみると書類などはあまり入っていないらしい。/万事がこの調子で、野性の魅力と巧まぬユーモアに溢れ、自然と引き込まれる。多くの有力スターを引きつけた秘密の一つはこの辺に、と思ったことがあった。〉(「撮影所長星野和平」、「懐しの新東宝」ノ―ベル書房、1994年刊)

結局、星野は新東宝の撮影所長を1期2年勤めた。クレジットを調べると、新東宝の撮影所長だった時期に「製作」として彼の名がクレジットされている作品は10本。『明治一代女』(55年、伊藤大輔監督)は「製作」、『王将一代』(55年、伊藤大輔監督)は「製作総指揮」で、残りは「製作」としてクレジットされているが、別に「企画」のクレジットがあり、製作本部に属する企画部員の名前になっている。つまり星野は従来型の企画込みのプロデューサーではなく、撮影所長としてスケジュールと予算の管理だけをしていたようだ。

同年12月29日、大蔵貢が社長に就任。大蔵のエログロ路線の下で、星野も前田通子のヌードが話題を呼んだ『女眞珠王の復讐』(56年、志村敏夫監督)、『四谷怪談』(56年、毛利正樹監督)などを製作するが、エログロ路線とは肌が合わなかったようだ。
また、星野と超ワンマンな大蔵とうまくいくはずもない。五社協定の下では星野の得意なスタア引き抜きもできない。得意技を禁じられ、がんじがらめになってしまった。そして1956年、星野は新東宝を去る。

「週刊朝日」1973年4月13日号の訃報記事によると、晩年は金融業、質屋、不動産、興行にも手を出すがことごとく不振。中野のあった家も抵当にとられ、アパート暮らしで、旧知の映画人に借金を重ねることも多かったという。そして1973年3月27日、脳出血で還暦直前の59歳で逝く。3月30日、東京中野の万昌院で告別式が開かれ、東宝の藤本眞澄、日活の江守清樹郎ら各社の重鎮や、いっとき星野が世話をしていた木暮実千代、吉川満子、藤田進、高峰三枝子らのスタアが参集した。死ぬ1ヶ月ほど前に親交のあった映画プロデューサーを訪ね、田中角栄の少年時代を映画化したいと話していたという。

【この項、完】