コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 俳優ブローカーと呼ばれた男【その四】   Text by 木全公彦
監督交代、そして公開
『叛乱』パンフレット
ところが、順調に撮影が進んでいると思われたのもつかの間であった。11月8日、佐分利信が膵臓壊疽で倒れ、監督を降板するという事件が起きたのである。佐分利は中野組合病院に入院し、9日には開腹手術を受けるが術後の経過がおもわしくなく、13日には輸血を受けるが、重体が続き、一時は危篤と報じるマスコミもあった。佐分利監督ですでに撮影を終えた場面は、全体の4分の1。なおかつ佐分利は俳優として西田税役でも出演していたから、その部分は全部破棄して代役を使って撮り直さなければならない。

そこで急遽阿部豊が代役監督として起用された上、さらに阿部の要請で内川清一郎、松林宗恵が応援として召集され、A、B、C班の3班体制を編成して、20日から撮影が再開された。佐分利が演じていた西田税が出演する場面は、佐々木孝丸に交代して撮り直し。したがって完成した作品で佐分利の演出場面に相当する場面は、撮影期間にして約3日~5日ぶんでしかない。それでも正月を飾る新東宝の看板番組であるので、年内完成、予定通り翌1954年1月3日封切りに向けて突貫撮影が行なわれた。

VHS『叛乱』
このような状態であるにもかかわらず、『叛乱』は予定通り1月3日に封切られた。通常なら阿部豊は「共同監督」としてクレジットされるところだが、「応援監督」としてクレジットされているのは、阿部が佐分利に花を持たせてやったためなのか、佐分利が取締役を務める東京プロの製作であるためか。しかし、計4人の監督が撮ったとは思えないほど完成した作品は場面ごとにぎくしゃくすることなく、統一感がある。これは撮影所システム全盛時代の賜物であろう。題材といい、重厚な演出といい、実際は全体のほんの一部しか演出していないにもかかわらず、佐分利のフィルモグラフィーの中でも違和感なく収まってしまうのが不思議なほどである。戦中を東宝で、戦後は新東宝で、多くの戦記大作を監督した阿部豊としても、新東宝時代は大味な作品ばかりが目立つので、本作が最も完成度が高いのは皮肉のかぎりである。

公開された『叛乱』は、夏までに1億2642万円を稼ぎ出し、新東宝作品の中では抜群の成績を収め、この年(1953年7月から1954年6月までの第11期)の新東宝で最大の興行成績を収めた。批評では「青年将校たちを美化しすぎているのではないか」という“逆コース”を憂う声も一部ではあったが、大方は好評。昭和史の分岐点になった2・26事件という歴史的事実の暗部に初めて日を当てた作品として、その重厚な骨格とともに賞賛された。

前年の『戦艦大和』に引き続いて『叛乱』がヒットしたことによって、新東宝は『潜水艦ろ号未だ浮上せず』(54年、野村浩将監督)、『日本敗れず』(54年、阿部豊監督)、『人間魚雷 回天』(55年、松林宗恵監督)などの戦記ものを続々と製作し、好成績を記録する。それでもますます経営が悪化の一途のたどる新東宝は、55年12月大蔵貢を社長に迎え入れ、大蔵の指揮下『明治天皇と日露大戦争』(57年、渡辺邦男監督)で空前の大ヒットを飛ばすのである。