コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 「母に捧げるバラード」のこと   Text by 木全公彦
『時の娘』に衣替え
『母に捧げるバラード』の企画が突如復活するのは、1979年である。ことは、『朝日のようにさわやかに』を日活に買い取られ、『愛欲の罠』と題名を変えられ、ろくに宣伝もされず継子扱いで公開されたことを苦々しい経験としてこだわっていた荒戸源次郎が、先述したように“産地直送映画”を標榜した移動式エアドーム型映画館シネマ・プラセットを設立し、映画製作と配給・興行に乗り出したことにはじまる。荒戸は親交のある3人の映画監督に声をかけた。鈴木清順、内藤誠、大和屋竺である。すでに大和屋竺の脚本による、松竹=三協映画『悲愁物語』(1977年)で映画界に10年ぶりに復帰していた清順は、またも懲りずに映画会社からは不興を買っていたが、予算がかからないことを理由に内田百閒の短篇小説「サラサーテの盤」の映画化『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)を提案する。内藤は東映で清順のために書いた脚本『母に捧げるバラード』を改題した『時の娘』(1980年)、大和屋は浦沢義雄脚本で『スウィング』(未映画化)を、それぞれ監督することになった。

企画の進行は3本ほぼ同時に進められた。荒戸は「昔の映画会社のようにラインナップというのをやりたかった」という。『時の娘』の導入部の箱根駅伝の場面を撮ってから、『ツィゴイネルワイゼン』がクランクインしたそうだ。

結果的にシネマ・プラセット第1弾は『ツィゴイネルワイゼン』となり、第2弾が『時の娘』、大和屋の『スウィング』は映画化されなかった。「大和屋竺ダイナマイト傑作選 荒野のダッチワイフ」(フィルムアート社、1994年)の年譜・フィルモグラフィ「大和屋竺聚成1978-1984」によると、「農村を舞台に二人のギャングが繰り広げるスラップスティック」であるという。大和屋のフィルモグラフィの中では“殺し屋もの”につながる作品のようだ。

内藤誠の『時の娘』は、長い間東映の専属監督だった内藤のフリー第1作になった。東映の合理化から生まれた、低予算のプログラム・ピクチュア製作専門の子会社、東映セントラルフィルムで、内藤は『十代 恵子の場合』(1979年)を監督するが、そこで相当過酷な思いをしたらしく、それを最後に東映を退社してフリーになる。そこに荒戸が声をかけたのだった。

内藤の記憶によれば、雪の降る夜に荒戸は当時では珍しかった越寒梅を持参し、雪見酒としゃれこみながら、「内藤さんが撮れば、清順さんも撮るからさ」とクドいたという。内藤は映画化にあたって、荒戸が製作する独立映画ということもあって天象儀館の俳優やスタッフのほか、高校や大学映研の部員を動員したが、加賀まりこが出演することにはこだわったという。なぜなら内藤はフリーになって、福永武彦の「廃市」を加賀まりこ主演で映画化しようという計画をもっていたからだった。のちに大林宣彦が『廃市』(1984年)を映画化したとき、企画・脚本に桂千穂とともに内藤の名前がクレジットされているのはそうした理由による。ちなみに『時の娘』の主役、つまり本来は武田鉄矢が演じるはずだった英次の役には、加賀まりこの事務所にいた清水光が加賀の推薦で配役された。共演の梅宮辰夫はもちろん『不良番長』以来の内藤の長い知己である。ヒロインの真喜志きさ子は沖縄出身で天象儀館の花形女優。父は沖縄演劇界の重鎮の真喜志康忠(国の重要無形文化財に指定された舞踏の演者でもあった)。『時の娘』で映画初出演し、続いて『ツィゴイネルワイゼン』にも出演する(公開は逆)。それから清順を崇拝する大森一樹の『ヒポクラテスたち』(1980年)に出演し、現在は古代仏教信仰史家。

ヤフオクで入手した『母に捧げるバラード』の準備稿(表紙のタイトルには『海援隊 母に捧げるバラード』とある)と内藤誠によって映画化された『時の娘』を比べると、登場人物、物語、プロット、セリフなど、ほとんどそのまんまである。大きく違う点は、導入部とラストで、オリジナルの『母に捧げるバラード』は武田鉄矢主演、鈴木清順監督を念頭に読むと、いかにもそれらしい感じに書かれてある。また『時の娘』は岸田今日子のナレーションが映画にカブさるが、『母に捧げるバラード』にはそれはない。ミュージカル風な場面もオリジナル版にはない。

逆に、オリジナル版では実家の博多にいる母親がオフから主人公を「こら、英次! なんばしちよるか! お国のために気ばらんか! 怠けちよるくらいなら死ね! 男と生まれたからには、輝く日本の星となれ!」という叱咤する声が繰り返し入るが、『時の娘』にはこれはない。このセリフ、そのまま読んでしまうと「ああ」で終わってしまうが、『時の娘』にもオリジナルの設定がそのまま踏襲された、主人公は自衛隊を脱走してきた青年ということを考えれば、鈴木清順=内藤誠=佐々木守によるオリジナル版は、東映が意図した「遠い故郷の母を思う若者の話」どころか、「自衛官として国のために身を投げ出せ」と叱咤する愛国的な母親の抑圧やそれへの反抗が露骨に浮かび上がってくる構造になっている。それが『時の娘』では、エディプス・コンプレックスのような、もうちょっと個人的な母への愛憎というように大きく印象が変わっている。そのことは「ぼく自身のマザコンによるものだ」と内藤は説明した。「世代的なものもあるかもしれませんが、ぼくらの世代は母親に対して特別な思いがある。まさにその部分が清順さんにはない、ぼく自身のものです」と。

『時の娘』を初見したときに感じた、清順らしさもあればどこか寺山修司っぽいところもあるという個人的な感想は、映画の根っこに母親への愛憎があることもあるが、青年が吉原にある旅館のドアを開けるとそこに一面海が広がっており、主人公の青年が“鬼瓦”と呼ぶ母親(画面には姿を見せない)が、鬼瓦の面をつけて振り返るというラストシーンが寺山の映画のイメージに酷似していたからで、調べてみたら寺山修司は1935年生まれ、内藤誠は1年遅れの1936年生まれで、ほとんど同世代だった。公開当時、賛否が分かれたそのラストについて、「最初はカンヌ映画祭に出そうということだったんだけど、川喜多和子さんに見ていただいたら、「あのラストさえなかったからカンヌに出品したのに」と言われました(笑)。踊りで終わってもいいかなとも思ったんだけど、そうすると余計に訳が分からなくなるだろうと。『時の娘』っていう題名が好きだから、ラストに「真実は時の娘なり」と入れてもよかったかもしれません」と、内藤は語った。まあそれでも精一杯の社交辞令だったんだろ、川喜多和子さんは。だから若死にしたんだ、なんてね。

オリジナルの『母に捧げるバラード』にあった導入部(たぶん佐々木守が書いたと思われる)がおもしろいので、書き写しておこう。武田鉄矢の顔に置き換えてお読みください。