コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 「母に捧げるバラード」のこと   Text by 木全公彦
触媒としての二人の映画人
鈴木清順をめぐる映画人やクリエイターの人脈として、しばしば大和屋竺の重要性が語られる。大和屋といえば、彼の持つ特異な世界観に基づいた風変わりな才能は、本人が亡くなった今も多くのクリエイターに大きな刺激を与えているが、一方で彼が本来なら出会うはずのない異能と異能をフィールドを超えてつなぐ触媒として、大きな役割を果たしたことも忘れてはならない。今回の『母に捧げるバラード』も例外ではない。

「月刊ペン」という雑誌があった。1976年に掲載した記事が池田●作ある人の逆鱗に触れ、名誉棄損にあたるということで、出版ジャーナリズム史上初めて出版人が刑事事件の名誉棄損で有罪になったという事件で有名な雑誌である(「月刊ペン」事件に関して詳しく知りたい方は、ウィキペディアをご覧ください)。その事件を引き起こす前の1972年頃のこと。その雑誌に状況劇場を辞めた荒戸源次郎と一緒に天象儀館を設立した上杉清文がコラムを連載していた。その誌上で上杉はピンク映画を論じ、東映のプログラム・ピクチュアに熱烈な賛辞を寄せていた。内藤誠は自分が監督した『不良番長』シリーズを誉めてくれるこのコラムの愛読者だった。それからまもなく内藤誠は、「映画批評」の新人監督の座談会で大和屋竺と面識を得て親しくなる。その流れで内藤は自作『番格ロック』(1973年)の脚本を大和屋に依頼し、それをきっかけに内藤の紹介で東映教育映画部において『発見への旅立ち』(1974年)を監督し、内藤が東映教育映画部で『中学時代 受験にゆらぐ心』(1976年)を監督したときは、“ドラキュラ”というあだなの社会科教師役で出演(!)することになる。ほかにも内藤は大林宣彦や大島渚ら、おおよそ東映とは無縁な監督と親しく交流し、協同関係も築きあげているから、彼もまた大和屋同様に触媒の才能を発揮した人かもしれない。

一方、大和屋のファンだった上杉と荒戸は、大和屋にファンレターを出し、当時、京王多摩動物園に住んでいた大和屋竺に会いに行った。大和屋は上杉が発見の会に所属しているときに上演した芝居「紅の十字架・アリス兇状旅」を大いに気に入っていたが、面識はない。ファンレターは上杉が書いて、大和屋からの電話に荒戸が応対したという。それで天象儀館の一党はずらりと揃って大和屋宅に押し掛けた。話すうちに天象儀館一党と大和屋は親しくなり、大和屋は天象儀館の芝居を見に行くようになる。当時の天象儀館には次第に政治色を強める若松孝二のところから離れた秋山ミチヲ(秋山道男)もいた。

あるとき「どうして最近映画を撮らないのか」という荒戸の質問に、大和屋は「撮らないのではなく撮れないんだ」と答えた。「それじゃ自分たちで作っちゃいましょう」という荒戸の提案で、天象儀館製作第1回作品『朝日のようにさわやかに』(改題『愛欲の罠』)を自主製作することになる。荒戸は映画製作のために高円寺に日之出荘というマンションを借りた。「日之出荘」だから題名は『朝日のようにさわやかに』にしたというのは、荒戸から聞いた話。ダジャレついでに「完成したら朝日生命ホールで完成披露試写会をやろうと計画していた」という(実際、荒戸演出による天象儀館フェスティバルは朝日生命ホールで行われた)。このマンションを根城に、天象儀館の劇団員は劇団の活動資金と映画製作の資金捻出のため、道路清掃のアルバイトやゲイ雑誌「さぶ」の編集まで手掛けたのだという。男性モデルに劇団員もよく駆り出されたそうだ。

大和屋は久々の監督作『朝日のようにさわやかに』(田中陽造脚本)の準備している最中、内藤誠の依頼で『番格ロック』の脚本も並行して執筆する。以降の『朝日のようにさわやかに』の準備から製作までの裏話は、大和屋竺著「某日茫話 日誌一九七二~七六」(「悪魔に委ねよ」所収、ワイズ出版、1994年)に詳しい。荒戸によると、完成した映画が日活で配給されることになったのは、黒澤満と岡田裕の尽力が大きいという。題名はポルノらしくという日活の要請で、『桃色の狼』となったが、日活側が「狼」という単語に難色を示したため(1974年に三菱重工爆破事件を引き起こすことになる「東アジア反日武装戦線“狼”」を連想するためか?)、最終的に『愛欲の罠』(1973年)と改題された。このことを不満に持った荒戸は、その後自前の移動式エアドーム型映画館シネマ・プラセットを設立することになる。