『母に捧げるバラード』のゆくえ
話を『母に捧げるバラード』に戻そう。
内藤は大和屋を通じて鈴木清順や天象儀館のメンバーとも親しくなった。大和屋に誘われて天象儀館の芝居も見に行くが、それはまだ直接的には関係ない。清順が東映で監督する久々の新作『母に捧げるバラード』の脚本は、清順の指名で佐々木守と内藤誠が書くことになったが、佐々木守が超多忙なため、内藤がメインで書くことになった。すでに書いたように、ちっとも懲りない清順は東映の出した設定もプロットも無視して、自身のオリジナル・アイディアを佐々木守と内藤誠に話し、それを元に脚本が書かれることになった。
なにも知らない東映は、脚本執筆用にお茶の水の山の上ホテルに部屋を取った。山の上ホテルといえば、川端康成や三島由紀夫ら名だたる文豪が出版社にカンヅメにされ原稿執筆をした由緒あるホテルである。最近では
新潮社某大手出版社が自主出版を希望する作家志望の
カモ人に山の上ホテルの部屋を借りて原稿を執筆してもらうという
あくどい商売有料サービスを行っているらしいが、それほどのホテルなのである。普通、映画人の常宿といえば、神楽坂の和可菜(オーナーは木暮実千代!)と相場が決まっているが、ともかく山の上ホテルを借りたというところが、たかがヒット曲に便乗したプログラム・ピクチュアとはいえ、東映が清順をどう遇したのかよく分かる。
鈴木清順が久々に新作を監督するという話を報知新聞で知った荒戸源次郎は、スイカを持参して清順と内藤の陣中見舞いに出かける。主人公の名前がまだ決まっていないので、荒戸は「どんな話ですか」と問いかけると、「花火師の話だ」という清順の答えに、「それならアチャコでしょう」と言ったという。つまり「花菱(ハナビシ)アチャコ」というダジャレ。よほどダジャレ好きなのか、この人は。この時点で、すでにお話は清順の原案で「吉原にまぎれこんできた若者と花火師たちの物語」になっている。隅田川の花火は1961年から1977年までの16年間、隅田川の汚染や交通事情を理由に中止されていた。そのことを背景にした物語なのだが、当然東映が提示した企画の原型はほとんどない。書きあげられた脚本を当然東映側がすんなり了承するわけはなく、すったもんだで当初の6月中旬クランクインは間に合わず(荒戸がスイカを持参して陣中見舞いに行っていることから、その時点で7月か8月のはずだ)、東映側は山の上ホテルから清順と内藤を追いだし、内藤のマンションで細々と脚本の直しが繰り返されることになった。
だが脚本は準備稿から進展することはなかった。食べ物の好き嫌いの激しいという清順は、ついに愛妻・静夫人の弁当を東映大泉撮影所で食べることがなかったのである……。