コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 三國連太郎『台風』顛末記 【その3】   Text by 木全公彦
好事魔多し
肝心の三國連太郎は、周囲の騒ぎを気にするわけでもなく、また三國待ちでスケジュール調整をやりくりする『飢餓海峡』や『怪談』(65年、小林正樹監督)の現場の苛立ちも馬耳東風に受け流しているかのように、『台風』の撮影を続けていた。当初は木曽福島のオール・ロケだけで撮影するはずが、台風から村人が逃げ込む洞窟にふさわしい場所が現場にないという理由から、東映大泉撮影所に洞窟のセットを組んで撮影することになった。三國は9月13日に帰京し、14日にはラッシュの試写と編集、そして15日の早朝に大泉撮影所のセットに入り、撮影を再開した。

〈シーンは、祭りの夜にやってきた台風のため、丘の上のほら穴に避難した村人たちが恐怖の一夜をすごすところで、東映撮影所に、ブリキと泥絵具でつくったほら穴のなかには木曽の髭沢部落の住民、15人も加わってなかなかにぎやか。撮影隊が民宿してのロケだっただけに、スタッフとも顔なじみで「おい、とうちゃん」「ばあちゃんはそこにすわって……」などと、実に家族的なふんいきだった。〉(「中日スポーツ」1964年9月17日付)

三國は午前中でここでの撮影を済ませ、午後には『飢餓海峡』の撮影のために上野から北海道に出発、17日に大嫌いな飛行機で帰京して『台風』の撮影を続行するという殺人的スケジュールをこなす。

だが好事魔多し。そうは順調にいかない。11月1日に三國が面疔(めんちょう)になってしまったのである。面疔とは医学的には毛嚢炎が顔面にできる細菌性感染炎のこと。命に別状はなく、短期間で治るとはいえ、顔が売り物である俳優としてはありがたくない病気である。ましてや撮影中の映画に主演で出演している役者にとっては。このため自作の『台風』を始め、『飢餓海峡』、『怪談』の3作品に大きな影響が出ることになった。とくに大幅に撮影が遅れている『怪談』は、完全に撮りきったのは第2話「雪女」だけで、三國の出演する第1話「黒髪」は11月3日から撮影が再開するはずだった。医者によると、三國の症状は手術せずに薬だけで治療したとして少なく見積もって全治1週間だという。その間、3作品の撮影はストップした。「黒髪」で共演する新珠三千代も売れっ子でスケジュール調整は難航した。『飢餓海峡』は、参加予定だった秋の芸術祭への出品をあきらめることになってしまった。

11月14日、予定よりも10日遅れで、ようやく『怪談』のセットに現れた三國連太郎に、若槻繁プロデューサー、小林正樹監督以下安堵したのもつかのまだった。一難去ってまた一難。今度は三國がセットでの撮影中、腐った板を踏み抜いて、足を怪我してしまう。患部は左足親指と人指し指の間で、骨に達するほど深くトゲが刺さって、すぐに切開手術が行われた。全治1週間。こうなるとヤケのヤンパチ。三國は足をひきずりビッコをひきながら『怪談』の撮影を続行した。

『台風』のロケ撮影が木曽福島から青梅に変更になったのは、木曽福島の人々との関係が悪化したからだとも噂される。〈村人とロケ隊とのいがみ合い、最後は石で追われるように山を降り、青梅のロケに切りかえた。〉(「映画芸術」1965年1月号、「独立プロ二つの誤算」)とある。11月19日、『台風』は青梅ロケ終了でクランクアップ。東映が配給すると発表された。

クランクアップ直前の三國にインタビューした新聞記事。
〈『台風』の撮影をあと2、3日で終わる状態の三國は、この日(引用者註:11月14日)は編集に忙しい。『飢餓海峡』のためにのばしたヒゲづら。いく分やつれたようすだ。「69日間山奥にこもったもので……」と笑うが、初の監督業がいかにきびしいものだったか、いささかわかるようだ。「俳優としてのスケジュールの点でいろいろいわれているようですが、『怪談』の方は契約だと6月4日までにとりあげてくれることになっていたんですよ。『飢餓海峡』は9月の10日に入ることになっていたんです」という。『怪談』は6月4日までとはいえ、この契約期間中にテレビ出演をしたり、三國自身穴をあけたことは事実だ。にんじんくらぶとしては『飢餓海峡』とスケジュール調整をしながら残りのシーンを待っている。「もちろん『怪談』もはやく上げたいし、別にトラブルなくやれると思っています」と本人はのんびりしたもの。「1日10カット平均でとりました。NGが15割(原文ママ)、4~5万フィートはとりましたね。これを1万フィート余り、2時間くらいのものに仕上げる予定です。編集が勝負だね」と勝算ありといいたげだ。「私が俳優をやってるのでいうんじゃないですが、今度こそ入念な芝居ができたことはないと思いますよ。しかし、先輩のベテラン陣にはずい分気を使いました。芝居をおさえるのにいろいろ困りました」と苦心談が続く。撮影中、ほとんど三國自身が手を入れて台本をガラリと変えている。監督第1回作品として注目されているだけに最大のエネルギーをぶっけつけたといいたげな三國である。しかし『台風』はまだ公開方法が全然決まっておらず、三國は「東映側におまかせしてある」というものの、この公開をめぐっても話題をよびそうである。〉(「スポーツニッポン」1964年9月15日付)