女性の必然的行為?
犬の交尾場面は脚本の上に修正紙が貼りつけて書かれていることから、あとから追加されたらしい。よくいえば今村昌平の映画みたいだが、ストレートすぎて安っぽいピンク映画のようだ。三木弘子が扮する雑貨店の未亡人が自慰をする場面は、繋がりから推測すると、この善八と繁子のラブシーンの場面に挟みこまれたかこの場面のあとに挿入されたかだったと思われる。ますます三流のピンク映画みたいだ。
だが、マスコミの興味をそそるにはじゅうぶんだった。
〈日本人の模倣癖は、いまさらいうまでもないが、製作中の映画を見渡してみると、それが軒並み。もの真似もここまでくると、リッパな技術であるわい……と、つくづく感心させられる。三國連太郎が初演出で話題の『台風』に出てくるのが、未亡人のオナニーってやつ。連太郎監督がロケ宿のフトンの中でハッと思いつき、翌日、一日いっぱいかけて女優をクドきおとし、脚本にないシーンを撮ったというのだが、これもいってみれば『沈黙』でワイワイさわがれた例のカットの模倣だ。さらに田坂具隆監督(原文ママ)の『飢餓海峡』にも左幸子が“オナっちゃう”シーンがあるし、どうもこの模倣はあまり感心できない。〉(「内外タイムス」1964年9月14日付)
ところが、あまりにマスコミが興味本位に騒ぐものだから、自慰場面を演じた三木弘子がこの場面をカットしろと騒ぎ出した。
〈スウェーデン映画『沈黙』が話題をまいたのもオナニー場面にあった。健康で男をあさり歩く妹をみて、病床に伏しがちな姉が悶々の情を押えきれずに、妹の外出したとき、自慰行為をする――というシーンだが、宣伝ポスターやちらしには、オナニーにふける姉の顔のアップを見せたが、さて実写のときには、そのシーンはおろか、姉の顔の表情すら映倫のハサミでちょん切られていた。(略)その問題のシーンは『沈黙』ではついに見られなかった。その腹いせでもないだろうが、オナニー・シーンは邦画にも出現し、トラブルをおこした。『台風』は、三國連太郎が自分の“にっぽんプロダクション(原文ママ)”で、監督主演する映画。ほとんどがオールロケーションの作品だが、その中にオナニーをしている女性のシーンが登場することになっている――というのには理由がある。このシーンが撮影されるのを知った某女性が、女性を冒涜しているという理由で訴え、目下その白黒の決着はつかない状態にあるから、果たしてそのシーンが、われわれの目にふれることができるかどうかという疑問があるからだ。三國といえば、デビュー作品『善魔』当時から芸熱心で、それがサドとかマゾとか、さまざまな風評を呼び、俳優仲間でも異端児とされているだけに、彼がこのシーンをとりあげるのもむりもないものだというむきもある。〉(「100万人のカメラ」1964年12月号、「大流行!女性が一人で“慰める”とき」)
残念ながら、この騒ぎに関する具体的な記事を見つけることはできなかった。国会図書館といえども、「内外タイムス」をすべて揃えているわけでもないし、「大宅壮一図書館検索目録」はエロ本の記事が載っていないから、当時の記事をくまなく調べることが不可能だからである。先に引用した「100万人のカメラ」は別の記事が目当てに古本屋で購入して読んでいたら、たまたま該当記事が載っていたということだっただけである。ただし、竹中労の「芸能人別帳」(ちくま文庫、2001年)に次のような記述がある。
〈たとえば、1964年、自ら独立プロダクションをつくり『台風』という映画を製作したが、その劇中で新人会の三木弘子にオナニーの演技をつけて、本人から削除を要求される。連太郎ちっとも動ぜず、「自慰は女性の必然的行為」と称し、週刊誌にオナニー論争を巻き起こした。〉(「放浪魔人・三國連太郎」)
この騒ぎは先の引用した記事にあったように、同じく三國が主演する『飢餓海峡』(65年、内田吐夢監督)の左幸子扮する杉戸八重が三國演じる犬飼多吉の切った爪を使って自慰をする場面にまで飛び火した。ちなみに『飢餓海峡』の脚本を書いた鈴木尚之が著した「私説・内田吐夢伝」(岩波書店、1997年)によると、八重が犬飼の爪で自慰をする場面は鈴木が考えたことになっているが、内田吐夢の次男で『飢餓海峡』の製作進行を務めた故・内田有作に、映画史家の故・田中眞澄とわたしが聞いた話では、「あれは吐夢が考えたもの」と鈴木の主張に反論していたことを書き添えておく。だが、それは三國同様に吐夢がベルイマンの『沈黙』に触発されたものかどうかは、今となっては分からない。