映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第48回 ポーランド派映画とジャズ
前編・オラシオさんのリスニングイヴェントに参加して
クシシュトフ・コメダとジャズ
このように今回の映画祭はポーランド映画と聞いて誰もが思いつくような古典的名作はもちろんのこと、スコリモフスキ監修による日本未公開(または特殊上映のみ)作品の紹介に目覚ましい成果があった。キネマ旬報の年間ベストテンには一週間未満の上映作品は入れられないためにこれらは一本もあがってこないが、今ちょっと数えてみたら、そうしたシステム上の問題がなければ私の場合、十本中半分くらいは本映画祭プログラムで占められている勘定である。おそるべし「ポーランド派」。等と書いたが特にこのタームを厳密に規定する目的で今回記述しているわけではなくて、重心は「スコリモフスキによる極私的映画史」というところにあった。彼にとってワイダ、ポランスキー、ムンクというポーランド映画史上の巨星監督との縁も重要だが、同様に見逃せないのが音楽家、ジャズ・ピアニスト、クシシュトフ・コメダとの関係なのである。
実はずっと以前から本コラムでコメダについてやらなければならないと分ってはいたものの、知識に乏しくてお手上げ状態だった。少しずつCDを購入したり映画評論家K野仁さんから資料を提供していただいたりしてはいたのだが、言葉の壁は如何ともし難く、また共産圏(旧共産圏)におけるジャズについて語り方に迷っていたこともある。そう言えば今回はふれないけれども八木正生が音楽を担当した『さらばモスクワ愚連隊』(監督堀川弘通、68)という一例もあった。これは抑圧されたソ連社会に日本からジャズを輸出する話。だがソ連の場合とポーランドとではまた事態も異なるだろうし…。色々とプランを練りつつ過ごしていた折りも折り、今回の映画祭の関連イヴェントとして、オラシオさんDJによるリスニングイヴェント「ポーランドのサントラとジャズの関係」の告知を見たのであった。私ももちろん参加させていただき大いに触発された。11月23日に行われたこの催しでかかった音源は「オラシオ主催万国音楽博覧会」に詳細がアップされたので、このテーマに興味のある方はまずそちらをご覧ください。で、本コラムだが今回はオラシオさんのブログと映画祭プログラムに氏が寄稿されたエッセイ「ポーランド1956――映像と音像の関係」、また「紀伊國屋映画叢書1」他から色々と学習しながら記述する感じになる。合わせてお読みいただければ。しかし、そうは言ってもポーランド映画史におけるジャズの立ち位置、そこでのコメダとスコリモフスキ、また他の諸監督との関係について網羅的に述べられる状態ではなく、それは未だ一大課題としてペンディングにしておく。今回はむしろスケッチというか、どのようにコメダが現れ、そこにスコリモフスキが立ち会ったか、また後続の音楽家にどう影響を与えつつあるか、についてのみをいわば序論として記したい。ただし来月から本論開始じゃなく、いつ本論を始められるかも未定である。

クシシュトフ・コメダ。コメダというのは芸名(筆名)だが31年生まれ。スコリモフスキは38年生まれだから、コメダは七歳年長である。二人の出会いは56年らしい。この年頃の年齢差というのは絶対的に大きく、ましてや出会いも特権的なものだった。オラシオさんのエッセイから引用。

1956年、ポーランドでは二つのビッグ・イヴェントが開催されました。一つは、ソポトで開催された「ソポト・ジャズ・フェスティヴァル」。もう一つは、ワルシャワで開催された音楽フェスティヴァル「ワルシャワの秋」。この二つの音楽の祭典によって、ポーランドの映画と音楽は深く結びついていったのです。

コメダはソポトのイヴェントにセクステットのピアニストとして参加している。一方、スコリモフスキは過激な観客としてその場にいた。過激な、という意味は、この「世界最初期の公的なジャズの祭典」が「出演するジャズ・ミュージシャンばかりでなく、そこに集まった様々なジャンルの芸術家や、何万人ものポーランド市民が、ジャズをきっかけとして『自由な生活への希望』を体現した」点に関係する。開催に先立ち、市民がソポトの街頭を二十四時間練り歩いて喜びを爆発させた(むろん公的な目的はパブリケーション)のだが、仮装して群衆の先頭に立ったのがスコリモフスキだったのだ。紀伊國屋映画叢書には、この時のスコリモフスキの姿も「社会主義音楽の棺」を担ぐコメダ・セクステットの面々も共に写真で収められている。二人はここで友人となった。スコリモフスキがジャズ・ドラマーを自称し、幾つか作品にもドラマーとして登場するのは、コメダとの出会いをきっかけに彼のグループでドラムスを担当していたからだそうだ。もっともスコリモフスキの映画にコメダが起用されるのには、まだしばらく時間が要る。56年の時点でまだ彼は映画人でも映画学校の学生でもなかった。

オラシオさんのリスニングイヴェントでは翌年、第二回目のソポト・フェスにおけるコメダ演奏による自作曲「コウィサンカ(子守唄)」がかけられた。アルバム「ソポト・ジャズ・フェスティヴァル1957」“Sopot Jazz Festival 1957”より。この曲のバリエーションがポランスキー監督の短編映画『タンスと二人の男』(58)に使用されたとのこと。この映画がコメダにとって最初の映画音楽である。以後ポランスキーの短編にコメダ音楽というのは良い相性となり『天使たちが失墜するとき』(59)、『太った男と痩せた男』(61)、『哺乳動物たち』(62)と続けざまにコンビを組んでいる。こういうサイレント映画的コンセプトの短編映画に伴奏音楽というのは実は相性が良すぎるというかぴったりハマり過ぎの印象も。コメダは最初から実にのびのびと映画音楽作曲を楽しんでいるのが分る。「コウィサンカ」のカヴァー版も続けてかけられた。トランペッター、ロベルト・マジェウスキによるアルバム「プレイズ・コメダ」“Plays Komeda”(Gowi Records)からの抜粋。ポーランドのジャズ・ミュージシャンにとってコメダの存在が憧れであり里程標でもあることの一つの証明と言える。後年コメダ・グループでトランペットを吹いていたトマシュ・スタンコが亡き師に捧げたアルバム「リタニア/ミュージック・オブ・クシシュトフ・コメダ」“Litania Music of Krzysztof Komeda”(ECM)からも一曲抜粋。また、今回はかからなかったがスタンコには似たコンセプトのアルバム「ミュージック・フォー・K」“Music for K”(Musa)もある。Kがコメダなのは言うまでもないが、面白いのはこちらの盤がコメダ追悼のためではなく存命中に録音されていることだ。
本映画祭はコメダの演奏シーン(もちろん音楽全体も担当)が二本見られる点も嬉しいところ。有名な『夜の終りに』の音源をオラシオさんもかけたが、実は今回私はこれを見られなかった。残念。ビデオがリリースされているので確認しておこう。ポランスキーとスコリモフスキも同じ映画で見られるはずだが。そこで、もう一本の映画を代わりに紹介しておく。『さよなら、また明日』である。これはツィブルスキが主演と脚本も手がけたヤヌシュ・モルゲンシュテルン監督作品。『夜の終りに』とほぼ同時期の映画で、こっちにもジャズ演奏シーンがあるが、別にコメダが目立つように撮られているというわけではない。本作もポーランドでは特別にジャズ・ミュージシャンに愛されているようで、サントラ盤ではなくコメダ楽曲のカヴァー・アルバムが作られた。リーダー、サックス奏者マリウス・ファジ・ミエルツァリクによるその同名アルバム“Do Widzenia, Do Jutra”からの一曲。ちゃんと台詞入り。台詞はサントラ。
コメダが映画音楽家として注目されるようになったのは、やはりポランスキーの最初の長編映画『水の中のナイフ』(62)がきっかけだ。映画自体のコンセプトも共産圏(当時)のものとは思えぬ洗練さ。出てくる車はメルセデス・ベンツだそうだが外観、特にエンブレムが資本主義的過ぎて当局を刺激するというので、外観が出る部分だけプジョーで撮り直した、と撮影を見ていたスコリモフスキが語っている。そしてコメダによる音楽がまた映画の作風に同調した60年代のモダン・ジャズだったから世界が驚いたのも無理はない。極端に言えば、60年代の世界映画で同時代のジャズが画面から聴きとれるというのは本場アメリカ、ハリウッド映画には比較的少ない(サントラ製作には当時の一線級ジャズマンが参加しているのに)。その点ではむしろ日本映画の方がハリウッドよりは進んでいた位だから、東欧映画の画面から流れてくるモダン・ジャズは新鮮だったと同時にジャズという音楽の汎世界性を証明することにもなったのだ。ただしこの場合の世界性とは、建築の分野で世界中どこの都市にも同じ形の高層ビルが建てられるのを「インターナショナル・スタイル」と呼ぶのとは全く逆で、むしろそれぞれの地域の民族音楽を有機的に取り込むようなやり方での前衛的モダン・ジャズ。オラシオさんのリスニングイヴェントも、そうしたスラブ世界独特の憂愁の美メロディー満載で大いに楽しい。イヴェントのオープニングがベルント・ローゼングレンのサックスをフィーチャーしたアルバム「水の中のナイフ」“Knife in the Water”(Cherry Red Records)からの「クレージー・ガール」であった。(続く)