ポーランド派の前衛ハスとクッツ
全然本題にたどり着かないが、今回の映画祭は既述「三大巨匠」と「天才ムンク」以外に驚天動地の傑作が数多い。それらにも多少ふれておかないとまずい気がする。極端に言えば「ムンクを見に行ってハスとクッツを発見して帰って来た」という印象すらある。ハスの『サラゴサの写本』(65)はヤン・ポトツキの原作「サラゴサ手稿」(国書刊行会刊)が有名なので最初から楽しみな一本だったが、同監督『愛される方法』(62)は全く未知の作品で、しかも思いがけない傑作。前者は作品自体というよりも、この小説をモデルの一つにして論を組みあげたツヴェタン・トドロフの「幻想文学論・序説」(創元ライブラリー刊)の存在によって広く知られる、とするべきか。幻想文学を、語られる内容によってではなく語りの構造によって規定するこの著作の方法論をここで詳述する余裕はないが、そうした刺激を現代の批評家に及ぼしている小説の映画化だということを知っておくのは作品(映画)世界への何よりのガイドだろう。その気で見ると、映画の構造も極めて斬新なのが分るからだ。「よく似ているがよく見ると違う画面」を繰り返し用いるやり方、それに関連するが「反復」の知的というかエレガントな使用法、また回想の回想の回想、という入れ子構造など、我が国で言えば松本俊夫の『薔薇の葬列』(68)や『修羅』(69)を彷彿とさせる。あるいはルイス・ブニュエルの『皆殺しの天使』(62)、『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(72)、『自由の幻想』(74)とかに明らかに直接影響を与えているのも分る。またラストシーンに登場する宙に浮かんだ鏡がセルゲイ・パラジャーノフの『ざくろの色』(69)を想起させるのは偶然だろうか、とか色々と妄想にふける楽しみもある。そういう前衛映画を、言ってみれば大作並みの予算をぶんどってやってしまったのがポーランド派なのであった。
そして後者。これは「世界短編文学10北欧・東欧文学」(集英社刊)に「愛される秘訣」の題で翻訳されているとのこと。作者はカジミェシュ・ブランディス。「映画は、主人公である連続ラジオドラマの国民的人気女優フェリツィア(バルバラ・クラフトゥヴナ)が戦中から戦後にかけて自らが体験した出来事をパリ行きの飛行機の中や空港で数回にわたって回想するフラッシュバック形式を採用している。」と言っても『サラゴサの写本』のようなトリッキーな方法ではなく、素直な時系列に沿った思い出し方で、彼女の一人称のナレーションが効果的。彼女が恋した一人の男が戦時中にナチスびいきの同僚を拳銃で殺してしまった、と周囲から目されたことから始まる悲劇。悲劇ではあるがここに語られるポーランド女性の心意気はまさに「女の映画としてのポーランド派」を高らかに示すものとなった。ところで彼女が戦時中に自らの身を呈してかくまう男を演じているのは『灰とダイヤモンド』の主演で知られるズビグニエフ・ツィブルスキ。ここでのダメ男ぶりも絶品で、本映画祭は『灰とダイヤモンド』と『夜行列車』(59)のみで(我が国では)有名なツィブルスキのもう一つの側面をたっぷり見られる(全六本に出演)点でも画期的だった。その内の一本『さよなら、また明日』(60)では俳優としてのポランスキーとの共演までも見られる。「ツィブルスキってポーランド派のヨン様だったんだなあ」とつくづく思うわけだが、それは別に悪口ではない。
クッツも二本。『沈黙の声』(60)と『列車の中の人々』(61)である。同じ監督が撮ったとはとても思えない二本で、どちらも傑作。ただし徹底的に普通の演出で見せる後者に対して、前者の実験性はポーランド派の映画史的文脈からすら逸脱している。遠山純生くんの作品解説をカンニングさせてもらうと「観客の意表をつく諸ショットの斬新な組み合わせ。写実と象徴の併存。視覚面・叙述面における大胆な省略。『夏の終りの日』と並んで、ポーランド映画が1950年代末期の時点ですでに世界映画の“新しい波”の一角をなしていたことを証明する一作」。驚いた、という意味でならこれが本映画祭随一かも。舞台は第二次大戦終結直後の田舎町ジェルノ。ここにポーランド国内軍の兵士だった若者が列車に乗ってやってくるのだが、彼は赤軍兵士の処刑を拒否して軍規違反を問われ、逃げているところだった。歴史の一断面というよりも、カフカ的(主人公の顔のせいかな)不条理な数日間を物語的にでなく映像詩的に描いて秀逸。オーソン・ウェルズの『審判』(62)が好きな人なら是非、という仕上がり。青年はまた列車に乗り込み去っていく。画面と画面を「つなげる」というより「ぶつける」ような反物語的編集に痺れる。それに対して物語性の極致というべき編集技巧を駆使した群像劇『列車の中の人々』では、ナチス統治下、ある田舎の駅に列車事故で取り残されてしまった人々と駅員、ドイツ軍の鉄道警察官、そしてゲシュタポを巡るほんの数時間の出来事を、人々が無事に替わりの貨物列車に乗り換えて出て行くまで、息詰まるサスペンス描写で物語る。絶対に誰か死ぬ、あるいは大虐殺が起きるかも、とはらはらさせながら実は誰一人死なないという趣向が素晴らしい。代わりに犬が一匹無意味にあっけなく殺されてしまうのが本作唯一の不条理感覚である。