映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第48回 ポーランド派映画とジャズ
前編・オラシオさんのリスニングイヴェントに参加して
スコリモフスキとムンク
まだまだ本題にたどり着かないけれども、ともかく今回の映画祭最大の目玉は実は「三大巨匠スコリモフスキ、ワイダ、ポランスキー」ではなく、ムンク作品であるということ、これが重要。タイトルを挙げると『エロイカ』(57)、『鉄路の男』(56)、『不運』(60)、そして『パサジェルカ』(63)の四本だ。内容の詳細はプログラムを参照されたい。これは「天才ムンクが演出したすべての長編劇映画」とイントロダクションにある。執筆者のポーランド文化研究者久山宏一はその「イントロダクション/ポーランド映画の輝ける時代」において、ポーランド派、また今回上映される作品の監督についても要領よく総括しているので紹介しておく。

「ポーランド派とは、1940-50年代にソ連型の社会主義リアリズムともアメリカ型の商業映画とも異なる映画として、世界の関心を惹きはじめた『民族映画』の一つ」である。この一派を構成する監督達を今回の映画祭に当てはめてみると。「A:主に第二次大戦とその直後を背景にした映画の作り手、ワイダ、ムンク。B:庶民の視点から歴史を描くカジミェシュ・クッツ。C:心理主義的、実存主義的、イエジー・カヴァレロヴィッチ、ヴォイチェフ・イエジー・ハス、タデウシュ・コンヴィツキ。D:現代社会の素描と分析の名手、ポランスキーとスコリモフスキ。D系列の作品でデビューし、やがてA系列の作品を撮るヤヌシュ・モルゲンシュテルン。A系列の代表ワイダはD系列の名品『夜の終りに』(60)を撮った。(略)最も広義の定義によればポーランド派は、この時代に生まれた芸術映画の秀作をすべて包括する。19本(映画祭上映作品)のうち、『尼僧ヨアンナ』(60)までの13本はその黎明・最盛期に、『列車の中の人々』(61)以後の6本は退潮期に作られたことになる。」ムンク、スコリモフスキ、ワイダ、ポランスキーのポーランド派における立ち位置はこれで分るだろう。
また「ポーランド派を担ったのは、1920年代生まれで当時30歳前後の若者だった」とも久山は述べる。生年で見るとムンク21年、ワイダ26年、ポランスキー33年、スコリモフスキ38年で、世代的にもムンク、ワイダとポランスキー、スコリモフスキでくっきりと分かれているが、同時にこの区分は第二次大戦との関わり方の違いとして現れるのも見易い点だ。つまり単に十歳前後の年齢差という以上に具体的な戦争体験、例えば44年の「ワルシャワ蜂起」への関与の仕方や心情のあり方が異なる。もっとも、あらかじめ述べてしまえば、「心情が異なる」にも拘わらず年長のムンクと年若いスコリモフスキの間に師弟という以上の友情関係が成立した、というところがポーランド派のポーランド派たる所以でもあるのだろう。
スコリモフスキは今回来日し、開幕舞台挨拶と作品解説トークショーを行った。その模様、内容は「日本でただ一人のポーランドジャズ専門ライター」オラシオさんのブログ「オラシオ主催万国音楽博覧会」にアップされている。スコリモフスキと師ムンク、スコリモフスキと友人ポランスキーの関係についても当事者自身の言葉で語られているのでチェックしておいて下さい。今回のキータームの一つであるこのブログのタイトルをようやくここに記すことが出来たものの、本題はまだ先。いましばらくムンクについて述べておく。
映画ファンなら当然『パサジェルカ』は見ていなければならない。日本にもちゃんと上映可能プリントがあるし、ビデオもリリースされているから、ポーランド映画史を巡る回顧上映企画が行われる際には必ず採られる一本となっている。ところが、この特異な傑作をもってムンクの作風を推し測るのは実は早計だったのだ。アウシュヴィッツ強制収容所における女囚と女看守の愛憎、支配被支配関係の推移、という極めてデリケートな問題を扱うために、ムンクは自らの得意技の一つである「ユーモア」をあえて封印していた、ということが『パサジェルカ』以外の作品を見ることで初めて分る。例えば『不運』。この作品は、たまたまユダヤ人風のルックス(かぎ鼻)に生まれてしまった男にそれ故訪れる不運の数々を回想形式でつづるものだが、まともに取り上げたら悲劇にしかなり得ない物語を様々なスタイルを異化的に駆使したコメディとして描いている。

『パサジェルカ』を見ただけでは、ムンク映画のインスピレーション源の一つが「チャップリン喜劇」だとはとても想像もつかないが、『不運』にはチャップリン作曲「ティティナ」の旋律(映画『モダン・タイムス』の主題歌)が効果的に使われており、俳優の演技も明らかにチャップリン・スタイルである。主演の「ユダヤ人風非ユダヤ人」を演じたボグミウ・コビェラ自身はユダヤ人であり、ムンクもユダヤ人の混血とのこと。そうしたスタッフ、キャスト情報を聞くだけでこれは相当危険なコメディだと分るものの、映画自身はあくまで余裕しゃくしゃく。こういう人生もそれはそれであり得る、等と観客の方もつい感じてしまう陽気な作品に仕上がっていた。俳優としては超ロングショットでロマン・ポランスキーの喜劇演技も見られ、得した気分だがそう言えばポランスキーもユダヤ系である。母親を強制収容所で失っている。
喜劇と悲劇の併立という構成を採る『エロイカ』にも隠し味的にユダヤ人問題は表れる。ポーランド人将校用の捕虜収容所が舞台となる後半部では、捕虜同士のなれ合いのような怠惰な生活ぶりにいら立つ男が「孤独に暮らすために強制収容所に移してもらおうかと考えている」等ととんでもない台詞を吐く。このあたりの描写は、やはり強制収容所の想像を超える悲惨な実態を知らずに戦時中しゃべっているというシチュエーションなのだろうとは思うが、そうであったとしても、それを映画化する現在(57年)において「世界は既にアウシュヴィッツを知ってしまっている」わけで、このムンクのシニカルさはただ事ではない。私を含む多くの日本の観客はこうした「ヤブにらみ」なムンクを知らずにストレートな『パサジェルカ』一本で彼の作家性を理解したつもりになっていた。思えばこの収容所のシークエンスにも「ティティナ」の旋律はギター(?)で奏でられていたものだ。一応書いておくと『不運』はこれまで『ヤブにらみの幸福』というタイトルで知られていた映画である。