ウェルズにとってのTV
ウェルズにとってのTVは、ラジオの延長(『オーソン・ウェルズ スケッチブック』)から、映画作品と変わらないもの(『ベニスの商人』、そしてとりわけ『不滅の物語』)までの幅を持つようだ。しかし何といってもTVの経験からウェルズが得たものは、何といっても「軽み」であるように思える。TV作品ではコメディ、コントが多かったということもあるが、画面の枠を自在に出入りするという意味での「軽み」である。『オーソン・ウェルズと世界一周』での、受け答えするウェルズのショットが後で撮られて挿入されているという意味で、画面の外が侵入している。また、『若さの泉』では、語りの内容以上に形式が目立つ。演出家として画面の外に留まる映画と違って、TVではウェルズ自身が語り手として画面に現れ、語りを操作する(といってもウェルズは監督作のほぼ全てにおいて役者として画面の中にもいるのであって、そういう意味では映画ですらウェルズは画面の内と外を往還しているのだが、ただ、映画ではあくまで登場人物として画面内にいるのであって、語られる内容の全体を知っている者としてではない。神のように語りの内容の全体を知りつつ、なおかつ画面にいる語り手という存在形態はTVで初めて実現されたものだ)。TVではウェルズのメタ作家としての側面がかなり大きいのである。無論演出家としての存在が映画そのものの評価以上に目立った『市民ケーン』から、ウェルズという監督は作品そのものの内と外を自在に出入りし、その境目を曖昧にする、あるいは逆にその境界をこそ目立たせる存在であり、TVによってこそ、ウェルズがそのようなメタ的な作家であることを獲得したわけではないのだが、にしても、TVという媒体は、ウェルズのそうした側面を助長したことは間違いないように思える。
そのようなTV的なメタ性が最も際立つ作品が、『オーソン・ウェルズのフェイク』ということになる。そもそもこの作品はTVドキュメンタリーとして製作が開始され、その過程で構想が広がって最終的に映画作品になったという点で、ウェルズのTVと映画を繋ぐ作品である。そのような外的事情にとどまらず、その作り自体もTVでウェルズが培った手法に多くを負っているという意味で、TVがなければありえなかった作品となっている。語り手としてウェルズが画面に登場して語りを操作するのだが、そのこと自体が一つの大きなトリックとして、内容自体をも形作っているのである。ピカソの偽作を作る名人を取材するドキュメンタリーを、彼の伝記本の作家を道案内に作っていたところ、その作家自身がハワード・ヒューズの伝記を偽作していた贋作者だったことが明らかになる。そんな「嘘のような」話に驚いていると、今度はウェルズは、ピカソが美女に絵をだまし取られた話を語り出し、危うく信じかけた我々は、その話自体嘘だと明かされる。実際語り手ウェルズは映画の冒頭で、この映画の半分ほどは本当で半分は嘘だと宣言していたのだから、語り自体で嘘はついていない、「本当」なのである(ピカソの絵の贋作、その贋作者の伝記本の作家がヒューズ伝記の贋作者と、贋作が二重化する目くらましもさりながら、作家が贋作者といういかにも出来すぎの後半部が冒頭でウェルズがいう「半分の嘘」なのではないかと何となく我々は思わされる。これはマジックにおけるミス・リーディングの手法と言える)。ウェルズは語り手として、映画の形式を用いてトリックを仕かけているわけである。内容における事実と嘘、形式における語りの内と外、その境界をウェルズはこれまでになく自在に出入りする。この「軽み」は、やはりTVを経たことで獲得されたものなのだ。ウェルズにとってTVは単なるラジオ、映画の代用品ではなかった。ウェルズは、それぞれのメディアの特性を探り、それを十全に生かす方途を探し求めたのであって、とするならば我々は、ウェルズの映画を、複数のメディアの特性を総合したものとして評価すべきなのかもしれない。そのためには彼の演劇、ラジオでの業績の評価も改めてなされなければならないように思える。