オーレリア=ユダヤ
『オーレリア・シュタイナー』三部作のオーレリアは、同一人物なのか。しかしそれを問うても意味はない。そもそも同じ一篇の中で既述が矛盾してすらいる(父母は強制収容所で殺されたはずなのに、彼女は教授である両親と暮らしている)。オーレリアのアイデンティティは揺らいでおり、しかしその揺らぎの中にこそ、ユダヤであることの意味が込められている。多くのユダヤ人は、強制収容所で墓もなく死んでいる。記録に名前が残るばかりだ。あるいはその記録さえ失われて、その人の存在は痕跡すら残ってはいないかもしれない。アイデンティティの完全な消去。しかし、その虚無から人が生き延びる術がある。「語り」である。文字として記録され、固定されて止むことのない「語り」は、無文字社会における伝承のように繰り返し語られ、喚起され続けることで、ことによると文字以上に長く生き延びる。神話、言い伝え、物語、噂話。無論、固定されていないのだから、揺らぎ、曖昧さがあり、反復されるうちに枝葉がつき、原型からは遠くなってゆくに違いない。いやむしろ、時に応じて変化していくことこそ、時の試金石に鍛えられ、磨かれてきた証ではないか。この「語り」はデュラス的「記憶」と同じものである。オーレリアという固有名は、その名のもとに集った、第二次大戦中に迫害されたユダヤ人のあらゆる記憶、非人称的な「記憶」そのものなのであり、従ってむしろ名の不在と等しい。「オーレリア」という名は、そしてオーレリアの「記憶」は、アイデンティティの揺らぎによってこそ、散種され、分有されるのである(そしてそれは「愛」とも同じものである)。
デュラスは、このような非人称的な「記憶」を、ユダヤ的なもの=祖国無きものと見なし、さらにそれを言語観と重ねている。デュラスがテクスト三部作のメルボルン篇を書き終えた時期(1979年九月)、ポーランド系ユダヤ人の革命家で作家のピエール・ゴルドマンが極右集団に暗殺された。デュラスは『デュラス、映画を語る』の中で、「私たちユダヤ人の唯一の祖国は、エクリチュールであり、言葉です」との彼の言葉を引用し、「土地も国家もないこのユダヤ人の祖国こそ、この世で一番堅固で破壊しがたいものだ」と述べている。土地も国もないのだから、誰にもそれは奪うことができない。不在であるが故に、一層この祖国は堅固に存在するのである。『緑の眼』の「オーレリア・オーレリア・4」でも同じゴルドマンの言葉を挙げているが、そこではオーレリアについて、「すべての場所から彼女は呼びかけ、すべての場所を彼女は思い出す。(…)彼女はそういう場所にしか、記憶以外のなにものも起こらないような場所にしかいることができない」と述べている。デュラスにとってユダヤ性とは、言葉の問題、記憶の問題としてある。奪われた後、消尽の後、死の後に生き延びてゆく言葉、記憶。デュラスは、『緑の眼』所収のエリア・カザンとの対話の中でも、自分が植民地に生まれ、二度とそこには帰れない、「生まれ故郷なしに生きる」ことについて述べているが、生まれ故郷を記憶の中にしか持てず、それを語ることでしか取り戻し得ない人間として、デュラスが自身をユダヤと見ていたことは確かだ(「ディアスポラは、単にユダヤ人たちが発つことであるばかりではなくて、それはまた、去ることそれ自体においてユダヤ人が現前するということでもあるの」)。
デュラスのユダヤ性は不在を根拠にするにしても、そこから発していかに存在を生き延びさせるか(再現前させるか)にこそ賭けられており、従って『ショア』のクロード・ランズマンとは、ホロコーストというものがあらゆる表象が不可能になるような事態であるという認識においては共通するものの、その表象不能性を強調してそれ以後の道を閉ざしてしまうことは、すべての痕跡を抹消しようとする者たちの意図を完遂してしまうことに他ならないわけであるから、その点でデュラスとランズマンは意見を異にする。ましてやシオニズムのように祖国を「存在」させるべきという考えはデュラス的な「記憶」の策略とは真っ向対立するものである。デュラス的な言葉は、出来事の初源のアイデンティティをそのままに保つことではなく、出来事が語られ、語り直され、出来事の「今ここ」が揺るがされることそのもの、「今ここ」からどこでもない、いつでもない時空に去ることそのものによってこそ、生き延び、再現前し、他者に分有されるものとなる。言葉のうさんくささ自体が力となるのだ。