『オーレリア・シュタイナー』バンクーバー、海岸の木材置き場
『オーレリア・シュタイナー』ヴァンクーヴァー篇パリ篇
『オーレリア・シュタイナー』ヴァンクーヴァー篇では、メルボルン篇では曖昧だったユダヤ性が(一層)明確に現れる。ここではオーレリアは父に向かって手紙を書く。窓の外には海があり、嵐で海は荒れている。父は強制収容所で娘のためにスープを盗んだとして白い矩形の広場で吊るされた。しかし痩せすぎているために死にきれない。彼は人々に娘に食べ物をやってくれるよう、犬に与えてしまわぬよう叫ぶ。いつまでも死なない男はスキャンダルとなり、ようやく三日後に銃弾を撃ち込まれて死ぬ(『緑の眼』所載「書かれたイマージュ」によれば、このエピソードはエリ・ヴィーゼルの『夜』から採られた)。母もまた娘を生んで死ぬ。母(彼女もまたオーレリア・シュタイナーと呼ばれる)は十八歳である。手紙の書き手である方のオーレリアは港で水夫に出会い、彼にオーレリアという名を教え、紙に書き、手渡す。映画版では、ノルマンディーの海岸、その木材搬出所の廃墟、とある部屋の内部の映像、オーレリア・シュタイナーの文字、200095という数字が映し出される。語られる内容も過酷で、それだけに硬質なモノクロ(前作のカラーに対し、本作はモノクロ)がふさわしい印象だ。打ち捨てられた木材搬出所をゆっくりと横移動で捉えるカメラの視界に、雑草がまばらに生えた引き込み線路が映りこむ。それはまるで、かつての強制収容所跡のように見える。日常的な風景の中にいきなり現れる強制収容所。父の吊るされた白い矩形の広場は白いページでもあり、舞台でもあるという。デュラス自身は言及していないが無論スクリーンででもあるだろう。文字の書かれる紙、劇の演じられる舞台、そして映画が映写されるスクリーンはみな、作家としての、戯曲家としての、映画作家としてのデュラスの主戦場でもある。そこは死の影の射す場所でもあるのだ。また、もはや言うまでもないことかもしれないが、ここにもアイデンティティの揺らぎがある。テクスト版では最後に、私はオーレリア・シュタイナー、教授をしている両親と共にヴァンクーヴァーに住んでいる、と明かされる。死んだのは、では父母ではないのか。オーレリアとは母のことなのか、手紙を書く彼女のことなのか。
『オーレリア・シュタイナー』パリ篇では、オーレリアはパリの、森を見下ろすとある塔の中に老女といる。外は戦争である。老女は入り口に陣取り、ドイツ兵が入ってきたら撃つために銃を持って座っている。他には飢えた狂気の猫がいるばかり。オーレリアの母(彼女もまたオーレリア・シュタイナーという名だ)はユダヤの女王で白人が彼女を連れ去った。オーレリアは連れ去られる直前に老女に娘を委ねたのだ。作品は彼女たちの待機のまま終わる。「私はオーレリア・シュタイナー。私は両親が教授をしているパリに住んでいる。私は十八歳だ。私は書く」。