『鉄路の白薔薇』DVDジャケット
『鉄路の白薔薇』ノルマ
『鉄路の白薔薇』シジフ(セヴラン・マルス)
『鉄虚の白薔薇』ノルマへの思いを断ち切れないシジフ
『鉄路の白薔薇』タイトル部分のオーヴァーラップ
『鉄路の白薔薇』オーヴァーラップの一例
『鉄路の白薔薇』
『戦争と平和』は大ヒットし、ガンスは次回作をすぐさま構想する。『鉄路の白薔薇』(23)。原題はLa Roueで、車輪を意味する(英語題もThe Wheel)。とある鉄道員とその養女の数十年に渡る悲恋の物語。日本でもヴィデオが上下巻で出ているが、この上映時間は合わせて約200分、フリッカー・アレイのDVDは270分ある。あらすじを紹介する。
鉄道事故で孤児になった女の子ノルマ(アイヴィ・クローズ)を引き取った鉄道員シジフ(セヴラン・マルス)は、自分の息子エリー(ガヴリエル・ド・グラヴォンヌ)と一緒に育てる。美しく成長したノルマへの恋愛感情を抑えられなくなったシジフは、自身の感情を断ち切るため、またその心の秘密を知った富裕な男エルザン(ピエール・マニエ)に、世間に秘密を明かさないことを条件にして、ノルマを彼に無理やり嫁がせる。エリーもその後ノルマが実の妹ではないことを知り、ノルマを愛していた彼は、彼女を無理やり嫁がせた父を恨む。しかしシジフのノルマへの想いは断ち切れず、事故を起こしたシジフは(ここまでが第一部)、モン・ブランの鉱山鉄道に移転。エリーがノルマに送ったヴァイオリン(エリーはヴァイオリン作りの職人になっている)に、彼女への愛の手紙が封入されていることを発見したエルザンがやってきて、エリーと決闘、エルザンは死に、エルザンを追ってきたノルマが助けようとするが、エリーは崖から落ちて死ぬ。シジフは同僚のミスで視力を悪くしていたが、いよいよ盲目になりかかっていた。ノルマはそれを利して勝手に同居、気付かれないように彼の世話を焼く。いよいよ冬になる頃、子供たちが一年最後の踊りにノルマを誘いに来る。踊る子供たちの声を聴きながら、シジフは息絶える。
何故シジフはノルマが養女であることをエリーに打ち明けなかったのか(そうすれば彼らが結婚することはありえた)、何故エルザンはエリーの手紙を発見しただけでわざわざ高山までやってくるのか、何故シジフは盲目になるのか、何より、シジフとノルマの関係が映画全編にわたって一切変化しない、など物語の粗さが目につく。ガンス本人は、ヴィクトル・ユゴー、エミール・ゾラらの長編小説、ギリシャ悲劇にインスパイアされていると述べている(以下、DVD封入冊子、ウィリアム・M・ドリュー「アベル・ガンスのモダン・タイムスの悲劇『鉄路の白薔薇』」等より)のだが(ガンスは映画におけるユゴーを自負していた、また主人公シジフの名は、ギリシャ神話のシジフォスからきている)、一つの主題にまつわるエピソードをひたすら重ねてゆく本作(および前作)を見ると、大きな主筋にサブ・ストーリーが巧みに絡まるというような複雑な構成はむしろ不得手なのではないかと思う。ともあれこの作品が傑作として遇され、世界映画史上大きな意味を持つとされるのは、物語内容というより、その技法によってである。機関車の前面にシジフの顔がオーヴァーラップする冒頭から始まり、二重どころか三重、それ以上のオーヴァーラップ、マスキングによる視覚の限定、そして何より、素早いモンタージュが映画の全編で展開される。例えば、ノルマを嫁がせるために都会に彼女を送る汽車をシジフが運転している。ノルマへの思いを断ち切れないシジフは、ノルマを人にやるよりは、いっそ二人で死のうと、汽車のスピードを上げる。鉄路やシャフト、移り行く車窓風景、顔などのモンタージュが次第に早く、遂にはコマ単位で交代する。同じようなモンタージュは、ノルマ号と名付けた車両をシジフが転覆させる第一部終わりでも、またエリーが崖から落ちて死ぬ場面で、ノルマとの思い出が走馬灯のように脳裏をよぎる場面でも繰り返される。
『シネマ1 運動イメージ』でドゥルーズは、モンタージュを四つに分類している。アメリカの有機的モンタージュ(代表はグリフィス)、ソヴィエトの弁証法的モンタージュ(代表はエイゼンシュテイン)、フランス戦前派の外延的モンタージュ、ドイツ表現派の強度的モンタージュ(代表はムルナウ)。外延的モンタージュを代表するのがガンスであるが、外延的というのは要するに、等質のものがその大きさを拡張してゆくこと、量の拡大、スピードの増大、である。その点他の三つのモンタージュと違うように思われる。それらにおいては、異質のイメージが掛け合わされ、対峙したまま一つの概念の(典型的には光の)コントラスト=強度として捉えられるか(ドイツ)、有機的な全体を生み出すべく統合されるか(アメリカ)、弁証法的に新たな次元を呼び出すべく統合されるか(ソヴィエト)、であるのに対し、外延的モンタージュにおいては、同質のイメージが積み重ねられてゆく。エリーの末期の眼に映るのは、すべてノルマとの過去であり、それが徐々に加速しながら積み重ねられてゆく。これは『ナポレオン』における多重画面においても同じことで、そこで起こっている出来事そのものは一つの事だが、それが横に拡張されている。しかしその同質のものの増大、拡張がいつか質の変化に至る。「思考は、あらゆる想像を超えるものに、つまり全体としての諸運動の総体に、あるいは絶対的運動に到達しなければならない。すなわち、はかり知れないもの、つまり度外れたもの、巨大なもの、広大無辺なもの、たとえば大空や果てしなき大洋、こうしたものどもとそれ自体において一体をなしている絶対的運動に到達しなければならない」(P.84)。相対的なものの増大が、思考(想像力)において絶対的なもの、度外れたもの(数学的崇高)に変わる。一瞬一瞬の継起が、時間の全体を想起させる。走馬灯が、その人間の一生を現前させるように。物理的なものであったイメージが、心理的なものに移行するのである。その変質を呼び出すという点においては、フランス戦前派のモンタージュも、他の三つのモンタージュと等しい機能を持つことになるわけだが。
理論的な話から急に下世話な話になるが、主人公シジフが女性としてのノルマを意識するようになるのは、彼女が庭のブランコにのっている所を見ることによって、である。彼女のストッキングをはいた足(マスキングを掛けたクロース・アップ)が宙を舞うのを見て、シジフは欲情する。エルザンもまた、あんな足の女と結婚できるなら、浮いた生活も諦められる、という。ガンスの他の作品に女性の足への執着が語られているようではないのだが。トリュフォーがガンスを評価する根拠は、この辺にもあるのではないか、という気がする(トリュフォーは周知の通り脚フェチである。『恋愛日記』、『日曜日が待ち遠しい!』等を参照)。
ガンスは、この映画の製作時点で、アイダ・ダニという女性と恋愛関係にあった。アイダは、ガンスがこの映画の製作にかかって七日目にインフルエンザにかかり、闘病を続けていたが、一通りの撮影を終えた時点で死去した。『鉄路の白薔薇』の撮影全体が、アイダの影の下にあったわけである。その意味では、全編にわたる苦しい恋慕が、ラストに至って浄化される過程は、ガンス自身の心的状況のドキュメント(撮影終了時点でまだアイダが亡くなってはいなかったことを思えば、祈り)のようなものだったかもしれない。撮影終了時点で、前作『戦争と平和』のプレミア上映がアメリカであり、ガンスはそれに招待される。この渡米は、そこでの歓迎ぶりもあって、ガンスにとって、落ち込んだ気分を晴らす絶好の機会となった。プレミア上映には、ガンスも尊敬するグリフィスと、そのミューズ、ギッシュ姉妹も同席、グリフィスは映画を絶賛、ユナイテッド・アーティスツ配給での全米公開を約束した。ハリウッドを案内され、また、辞退はしたもののアメリカでの映画製作の申し出などもあり、ガンスは予定を遥かにオーバーして三か月アメリカに滞在。しかしそこに『戦争と平和』、『鉄路の白薔薇』の主演俳優セヴラン・マルスの死の報があり、帰仏。編集に取りかかり、製作開始から三年を経て、ようやく完成させる。完成版は七時間半(レストアDVD版は四時間半)あり、1922年12月、週一回、二回にわたって上映。六千人を収容する映画館で、満員だったという。本作には、ブレーズ・サンドラールが助手(本DVDには彼が撮ったメイキング短編が収められている)、キュビスムの画家フェルナン・レジェがポスターを描き、プレミア上映時にはアルチュール・オネゲルが音楽を提供、その一部が彼の代表作『パシフィック231』に使用されている(ただしDVDの音楽は新たにつけられている)。詩人、画家、音楽家、当代一流の芸術家の協力を仰いだという点でも、総合芸術としての映画の力を見せつけたわけである。