『黒猫』まで
ウルマーは1933年初長編『損なわれた人生』Damaged Livesを演出。図らずも梅毒にかかってしまった夫婦のメロドラマ。加藤幹朗『ジャンル、スタジオ、エクスプロイテーション』(『思想』2007年3月)によれば、カナダ衛生局委嘱、コロンビア製作配給ではあるが、プロダクション・コード発効直前に、セックスを題材とした際物(エクスプロイテーション)として受け取られることを想定して製作公開された作品。これはアルファ・ヴィデオからDVDが出ている。ウルマーの処女長編がセクスプロイテーション映画であったという事実は、その後のウルマーの作歴を見るとなにか必然のように見えてくる。梅毒も外からやってきた、どうしようもないほど圧倒的な災厄として描かれており、主人公たちがそれと葛藤、格闘しうる相手ではない。このような宿命論的な色調も、後のウルマーを考えると予兆的に見えてくる。
『黒猫』スチール
『黒猫』のモダンなセット
『黒猫』宙に浮く死体
『黒猫』悪魔教の集会
ウルマーは翌34年、ユニヴァーサルで『黒猫』を撮る(日本ではなぜか未ソフト化。アメリカでは単体、ルゴシ主演作のコンピなど様々な形態で入手可能)。共に31年、トッド・ブラウニング『魔人ドラキュラ』、ジェームズ・ホエール『フランケンシュタイン』で人気キャラクターを確立したベラ・ルゴシとボリス・カーロフの二人をダブル・キャストで主役に据えた豪華な作品(二人は初共演)。豪華なのはキャストばかりではなく、セットも素晴らしい。ハンガリーの第一次世界大戦激戦地、累々たる死体の上に築かれたという邸宅が舞台となるのだが、ガラス張りの壁、椅子も当時としては最新なのだろうパイプ椅子など内装もすべてモダン。ウルマーがウィーンの美術大学を出ていること、またベルリンでも仕事をしていることを考えると、二十年代のバウハウスなども吸収しているものと思われ、それがここに現れているのかとも思う(美術としてクレジットされているのはチャールズ・D・ホール、上記『魔人ドラキュラ』、『フランケンシュタイン』などユニヴァーサル・ホラーの多くを手掛けている)。そこに、ハンガリーに新婚旅行に来たアメリカ人作家夫婦と、戦後長らくロシア?に抑留されて収容所暮らしをしてきて、帰還してきた男(これがルゴシ)が、列車の同じコンパートメントに乗り合わせ、ホテルまでタクシーで同道するがその途中、雷雨のためタクシーが事故に遭い、近くの豪壮な邸宅に緊急避難する。その邸宅の持ち主である世界的建築家(これがカーロフ)こそ、ルゴシの妻と娘を奪い、彼を収容所送りにした張本人なのだった。ルゴシはカーロフに復讐すると共に、妻と娘の行方を捜しに来たのだ。
妻は夫ルゴシが死んだと告げられ、カーロフの妻となって、その後死んでいる。カーロフはあまりにも美しいその死体を生前のままの形で地下室に保存している。その地下室がまた異様で、螺旋階段を下りてゆくと、昔砲台だった部分がそのまま利用され、鉄筋コンクリート剥き出し、そこにガラス張りの棺が立っており、その内部に照明がしつらえられているのか、そこに立ったままの女の死体の金髪が光り輝くのが、まるでそれ自身が発光するかのように見える。砲台だったというだけに、目標を測定するためと思われる目盛りのようなものが壁に貼り付けられ、横から見ると宙に浮いているように見える死体がその目盛りによって測られているようだ。いったいどこからこんなセットを思いつくのか見当もつかない。この当時のユニヴァーサル・ホラーの平均から言っても異様すぎることは間違いないと思う。
カーロフは悪魔教の司祭であり、その生贄にアメリカ人作家の妻を捧げようとするのに対し、ルゴシがそれを阻止しようとして、またしてもこの二人が女性を巡って争うという展開になる。悪魔教と言う展開が唐突だが、女性を巡る確執の宿命的な反復や、モノクロ画面だと真っ白に輝く金髪の女性(同一人物が演じるルゴシの妻とその娘、娘の方も今やカーロフの妻。なんと親子丼)とアメリカ人妻の黒髪との対比など画面のインパクトの方にこそこの映画の眼目はあるだろう。この作品はウルマーにとって代表作で、かつ出世作になるはずだったが、製作中のとある事件によってウルマーは輝かしい未来を失う。この作品のスクリプトを担当していたシャーリー・キャッスルという女性とウルマーは恋に落ちてしまうのだが、この女性はユニヴァーサルのB級映画製作班のプロデューサー、マックス・アレキサンダーの妻だった。そのマックスは、ユニヴァーサル社長カール・レムリの可愛がっていた甥っ子で、その妻を略奪したわけなので、ウルマーはメジャー社から締め出されてしまうのだ。ウルマーがB級映画にその生涯を費やさざるを得なかったのはこのためなのだが、しかし思えば『黒猫』の物語自体、そのようなものではなかったか。ウルマーは、自分の作っている映画そのままの事態を自らの身に招いてしまう。先に、ウルマーは虚言癖とまで言わないにしても、自分の人生を語るに際してかなり潤色していると書いた。彼は自分の人生を虚構化していたわけだが、その一方で虚構であった筈の映画そっくりな出来事を実人生で繰り返す。これはまだ先のことになるが、『恐怖の回り道』で、主人公は東海岸から西海岸へ向かう。これはハリウッドで仕事ができなくなってやむなく渡った東海岸から、再びハリウッドへ帰ろうとするウルマー自身に重なると述べている者もいる(BFI発行、ノア・アイゼンバーグ著Film Classics : Detourより)。虚構が現実へ。現実を虚構へ。ウルマーは事実と虚構のないまぜになった境位を生きていたと言えるかもしれない。運命に翻弄され続けるかに見える『恐怖の回り道』の、ただひたすら誰に向かってともしれず、一聴俄かには信じがたい物語を語り続ける主人公が、ウルマーその人にも見えてくる。が、先走りすぎた。ウルマーのキャリアに戻る。