海外版DVDを見てみた 第21回『ジョーン・クロフォードの50年代』 Text by 吉田広明
クロフォード・イメージの逆転
『ミルドレッド・ピアース』以降、クロフォードが演じる役柄は、自身の努力で成功したか、あるいは婚姻関係によってか、いずれにせよ裕福な女性が多くなる。その彼女が、何らかの形で脅威に晒される。かつては彼女が成功する姿に喜びを見出していた観客は、今度は功なり名を遂げた彼女が苦しむのを見て喜びを見出すのである。

『ハリエット・クレイグ』ポスター

家庭の秩序を象徴する壺をぞんざいに扱う夫
例えば『ハリエット・クレイグ』では、彼女は裕福なブルジョアの主婦で、のんきな夫(ウェンデル・コーリーが演じている)を尻に敷いているのだが、観客は夫が彼女の正体に気が付き、遂に彼女を捨てることになるまでを、残酷な喜びと共に見守るのだ。実際ここでのクロフォードはいかにも憎々しい女であり、家庭の実態は、かかあ殿下というような生易しいものではなく、むしろ「支配」というにふさわしいものである。マントルピースの上の陶器が自慢で、その位置が数センチずれていても自分で直し、家政婦が決まった時間にカーテンを閉めることを怠れば叱りつける。彼女にとって「家」は、彼女が勝ち取ったすべてを象徴するものであり、そこを清潔に、きれいに保つこと、そして何よりそこから他者を排除することこそが、彼女の勝利を永続させる唯一の方法なのだ。彼女にとっては子供すら「家」への侵入者であり、従って彼女は不妊と嘘をついて子供を産まないようにしているし、さらに、夫が栄転して海外転勤になれば、上司に夫の経済観念への疑念を匂わせて転勤を阻止しようとすらする。自分の栄転がなくなったこと、その原因が妻にあるらしいことを知った夫は、ようやく妻の正体に気が付き始める。帰宅した夫は、吸っていた煙草を捨てようとして、灰皿を探すが、思い直して床に捨てる。マントルピースの壺を片手でつかみ、ひょい、と軽く空中に投げ上げてみる。そのままソファに寝転がるが、自分が動かすたび、妻が左右シンメトリーになるよう必ず直すクッションを、自分の座りやすい位置に置く。そして手にした壺を床にたたきつけ、粉々に打ち砕く。こうして夫婦の関係は終わりを告げ、やはり行くことになった海外転勤から例え帰っても、この家には帰らない、と夫は宣言し、家を出てゆく。

『女王蜂』ポスター

『女王蜂』死ぬ二人
『女王蜂』でもクロフォードは、家族を支配する。舞台は南部の名家。視点人物であるクロフォードの従妹がこの屋敷にやってくることから物語は始まる。クロフォードの夫である、頬に傷があり、酒浸りの主人(バリー・サリヴァン)、会った早々、あんたが嫌いだ、と言う、こまっしゃくれた五歳くらいのその息子、ギスギスした態度の主人のビジネス・パートナー(ジョン・アイアランド)、唯一まともなのは、アイアランドと結婚することになっている主人の妹くらいのものだ。誰もが陰気くさく、屈託を抱えているように見えるだけに、女主人のクロフォードは、輝くばかりに美しく、家の中心に見える。しかし徐々に分かってくるのは、女主人が権力的に周囲の人間を支配する「女王蜂」であり、彼女に支配されていることが、その周囲の人間を屈折させている当の原因だということだ。アイアランドは女主人と不倫関係にあり、そのことを知っていながらどうしようもない主人はアルコールに逃げているのだし、母親に構われず邪魔扱いされているから幼い息子もひねてしまうのであって、主人もその息子も、その内面に優しさを隠し持っていることにヒロインは気が付き、彼らへの同情は次第に愛情に変わってゆく。そうした中、結婚式の直前、結婚後も関係を望むクロフォードをアイアランドが拒絶したことに腹を立てたクロフォードは、アイアランドとの関係を主人の妹に告げ、絶望した妹は首を吊って死んでしまう。主人は、妻を殺して自分も死ぬことを考えるが、自殺の原因が自分ではなく、クロフォードにあると知ったアイアランドは、パーティに行くというクロフォードを送る車を自分が運転し、交通事故によって自身とクロフォードを葬る。

この二作においてクロフォードは憎まれてしかるべき存在であり、それなりの罰を受ける。かつては女たちの希望であり、憧れであった彼女は今や憎まれ役なのだ。こうした変化の背景には、十年のタイムラグがあることは確かである。クロフォードは、男性を圧倒する存在感、意思の強さによって、戦後であればファム・ファタルを演じていてもおかしくはなかったのだが、フィルム・ノワールが現れた時点で性的誘引力を持つ女性を演じるには、ありていに言って年を取りすぎていた。その容姿にしても、中年期を迎えたクロフォードは、顔は角ばり、身体もいかつさが目立ってきて、その肉の中に溺れたいような官能性からは遠ざかる(中年以降の彼女のギョロ目はむしろ恐怖を起こさせるようなところがあり、彼女が支配的な女を演じるのには、その目力が大きく貢献していただろう。さらに晩年になると、恐怖映画に出演するのももっともと思わせる)。一方、ファム・ファタルにはミソジニー(女性嫌悪)を引き起こすものでもある。男性は女性に性的なものを求めながら、一方でそれを忌避する。欲望と忌避、そのアンビバレンツをまさにファム・ファタルは体現しているのだが、クロフォードはファム・ファタルの両面のうち、その忌避、嫌悪の方のみを引き受けてしまった、と言えるだろう。40年代後半から50年代にかけてクロフォードが主演した映画で、彼女のドラマは結婚するまで、ではなく、結婚してから、を主な舞台とする。誘引することではなく、既に誘引され、その結果に男が屈託を覚え始めるその時からドラマが始まる。女性に対する欲望以上に、女性への忌避こそが駆動する物語を生きることをクロフォードは強いられるのだ。先ほど述べた、ファム・ファタルとクロフォードのすれ違い、捻じれは、本来二重であるべきファム・ファタルの、一面をしかクロフォードが体現していないことに由来する。そのさらに遠因には、身もふたもない話だが、クロフォードの女としての盛りが、十年経って去ってしまっていたことがある。なおかつ、50年代に入って、男性の意識が変化してきたことも、クロフォード・イメージの変化に何らかの影響を与えているだろう。ノワールを生む素地となった戦争直後の倦怠からいくらか立ち直ってきた男性にとって、男より上位に立ち、男を支配する女性の存在は疎ましいものに見え始めてきた。共産主義フォビアに顕著であるように、社会全体も保守化し始めた。クロフォードのような強い女性は最早嫌悪され、排除されるべきものでしかなかった。そうした風潮の表れこそ、『ハリエット・クレイグ』であり、『女王蜂』であったわけだ。