『エドヴァルド・ムンク』
ワトキンスはその後スウェーデンに移住、その地で作品製作を継続する。その最初の作品が『エドヴァルド・ムンク』Edward Munch(『ムンク 愛のレクイエム』として公開されている、74)となるが、その前にワトキンスが北欧で撮った作品についてすべて挙げておく。自殺率の高かったデンマークで、現代生活と自殺の関係を探った『70年代の人々』The Seventies People(75)、近未来の国際核廃棄施設に住む科学者一家を描く『罠』The Trap(75)、核ミサイルを積む潜水艦の建造に反対する地元住民者たちが大臣を誘拐するが、テロリストとして殺害されるという『夕暮れの土地』Evening Land(77)、『ウォー・ゲーム』のアップデートを目指し、軍備競争と核兵器の現状、教育とメディアの役割などについて、日本を含む世界十五か国に渡るインタビューを駆使して描いた14時間半に渡るワトキンス最長の長編『旅』The Journey(83-87)、『エドヴァルド・ムンク』にも出てくる、スウェーデン出身の劇作家ストリンドベリを描く『自由思想家』The Freethinker(94)。うち『夕暮れの土地』はフランスで、『自由思想家』はフランスとアメリカでDVD化されているが筆者未見。
『エドヴァルド・ムンク』は、その名の通り、ノルウェイ出身で現代絵画の新たな道を開いた画家ムンクの生涯を描くドキュメンタリーとひとまずは言えるが、ワトキンスのことであるから一筋縄ではいかない。枠組みとしては、病弱で腺病質な青年期のムンクが、当時のノルウェイの芸術家との交流、人妻との交情、プロテスタントの厳格な父との葛藤、生涯付きまとうことになる母や妹の死の記憶を通じて、画家として自己確立するに至る過程、ベルリンを拠点にしつつ、ヨーロッパ各地で展覧会を開きながら(酷評され続けた)、自身の諸テーマを展開していった青年後期、エッチングなど油絵とは違った形式を用いることで、自身の主題を整理していった壮年期と、ムンクの生涯を辿る。ナレーションが、ムンクの日記、当時の新聞、周囲の人物の著作などを引用し、ある程度明晰にムンクの生涯を語る一方、画面はズームを多用し、かつ時制は混乱、人妻の愛人との場面や、妹の死、自身の喀血の場面など、ムンクの生涯を領した出来事が何度も何度も、途切れ途切れに、ほとんど脈絡を欠いて反復される。ムンクの絵画を見て嫌悪感を覚えるブルジョアのインタビューなど、これまでのような手法も使われていないことはないが、それもこれまでのように転覆的な効果を強烈に発揮するわけではない。確かに時制の混乱などはあるにしても、かといって混濁しているわけでは全くなく、ごくスムーズに見終えることができる(全体で三時間半ある)。この映画を一貫性あるものにしているのは、ムンクという芸術家の創造の過程である。さまざまな出来事、その記憶、イメージが、画家の頭の中で渦を巻きながら、ある一つの形に収束してゆく。この作品は全体に、ムンクが感じているように、見る者にも感じさせるように作られているのだ。これはムンクという画家自身が、自分の感じたように風景を変形させてしまう画家だったということも大きく作用しているだろう(批判者は、彼の人物や風景の非現実的な色彩や形態を批判した)。例えばズームの使用に典型的に見られるように、視線の対象である人物をそっと盗み見るような親密性(たとえそれがムンク本人を映し出しているにしても)が感じられる。今見られているものがリアルなのか作り物なのか、に関心を向けさせることの多かったワトキンスだが、ここではそのような論争的性格は失われている。ワトキンスは本作を「私のこれまで作った映画の中で最もパーソナルな作品」と述べている。