今回はイギリス出身の特異な映像作家ピーター・ワトキンスを取り上げる。
前回ドナルド・キャメルを取り上げた流れであるが、ワトキンスはあまりにも多種多様な問題を孕んだ作家であり、その全貌は筆者などには到底測りがたいものがある。ワトキンスにはメディア批判の著書もあり、彼自身による作品解説、論文を集めたホームページもあり、その作品についての研究書も多々あるが、筆者はそのごく一部を参照したに過ぎない。ここではあくまで筆者がふれ得た作品(全部ではない)についての、筆者なりの見解を提示するにとどまっている、とお断りしておく。
初期短編
ワトキンスはケンブリッジ大、ロイヤル・アカデミー・オブ・アートに学んだ後、兵役に取られ、カンタベリーで兵役につきつつ、アマチュア劇団プレイクラフトに所属し、演技、演出などするうち、彼らと共に短編映画を作ることになる。それがワトキンスの短編第一作『ある無名兵士の日記』The Diary of an Unknown Soldier(59)である。時代は第一次世界大戦中。主人公は今にも前線に送り出されようとする新兵である。ワトキンス自身が担当するモノローグが新兵の心内語として機能し、そのアフレコ音声以外のセリフはない。いよいよ前線での戦闘が始まると、戦場を走る新兵の視点を模すように手持ちカメラの映像は揺れ動き、画角は狭く抑えられて、その圧迫感が戦場の恐怖の表現となる。無論それは、ロケ地を戦場らしく設定することなど到底できないという予算上の限界を糊塗するための策略でもあるのだが(銃の発射場面すらなく、すべては、銃声や走る足音など後付けの効果音のみで表現されている)、一方でそれは、全体を把握できないという戦場のリアリティを表象してもいるだろう。実際本作は、郊外の野原で、たった数人の役者だけで作られているにもかかわらず、演出=編集によって、戦闘前の新人兵の胸の詰まるような不安、戦闘開始後の兵士の動揺、パニックが如実に感じられるようになっている。
『ある無名兵士の日記』に続く短編は『忘れられた顔』Forgotten faces(61)。『無名兵士の日記』が数十年前の出来事を取り上げているのに対し、『忘れられた顔』は56年、ソ連での雪解けの余波の中、ハンガリーで起こった革命がソ連の介入によって潰された、近過去の出来事を取り上げている。作りは『ある無名兵士の日記』と同様で、全編アフレコのナレーション、手持ちカメラの揺れ動く映像、効果音で構成される。ラストでは、それぞれの革命闘士の顔に、「亡命」、「死亡」、「処刑」など、彼らの末路を示す文字が映される。ソ連軍の暴力を描くことが主眼ではあるが、民衆が赤十字を装った車両から兵士を引きずり出してリンチする様や、食糧配給所で民衆に襲われ、死亡したガードマンなども映し出されており、革命する側の暴力をも見逃してはいない。
これらの短編は、ワトキンス自身の言によれば(以下、断りなき場合、ワトキンス自身のホームページに依る)ハリウッド流の人工的な映像に対し、リアリティのある映像を生み出すことを目的としていた。素人の起用、手持ちカメラの揺れ動く映像、切れ切れの断片を無造作につなげたような荒削りな編集。実際、『忘れられた顔』を買わないかと持ち掛けられたイギリスのグラナダ・テレビは、これがカンタベリーで作られたドキュメンタリーを装った作品と聞いて、こんなものを放映したら、自分たちのニュース映像を誰も信じなくなってしまう、と購入、放映を拒んだという(『傷だらけのアイドル』BFI版DVD付属冊子、ジョン・R・クックの記事)。確かにこれはリアルに見える偽物、であり、逆に言えば、偽物でありながら、その技法によってリアルに見えるもの、である。つまりどんな素材であっても、そうした技法によってリアルに見えてしまう、ということだ。ワトキンスはここでさらに一歩を踏み出す。カメラなどなかった時代に、こうしたドキュメンタリーの手法を持ち込むのである。まるでTVドキュメンタリーのように捉えられた歴史的出来事。それがワトキンスの長編第一作になる『カロデン』Culloden(64)である。