海外版DVDを見てみた 第19回 ドナルド・キャメルを見てみた Text by 吉田広明
自死
ドナルド・キャメルは96年に自殺しており、その直接的な原因は、『ワイルド・サイド』の悶着にあるとするのが一般的である。しかし、彼の創作能力が下降しつつあったこと、時流がアンダーグラウンド的なものとは相容れないものになってきていたことも、その原因として考えていいように思う。ちなみにその方法は拳銃を頭に撃ち込む、というもので、しかも頭の天辺に、であった。即死ではなく、死亡するまでに45分ほど間があり、キャメルは鏡を持ってこさせ、頭を映し、「ボルヘスは見えるか」と聞いたという(フィルム・コメント誌、1996年7月8月合併号のクリス・チャン「シネマ、セックス、マジック」)。これは『パフォーマンス』で、フォックスがジャガーの頭の天辺を拳銃で撃つと、その銃弾が脳内を突進する様がアニメーションになるのだが、そこにボルヘスの写真が一瞬写る、その場面を思い出しているのだ。キャメルは『パフォーマンス』におけるターナーに自身を擬していたわけである。しかしターナーと違ってキャメルは、人格が入れ替わるべき分身チャスを持たなかった。

分身と言えば、キャメルの映画が奇妙な平行関係を保ってきた映画作家に、スタンリー・キューブリックがいる。晩年のキャメルの協力者であった人物によると、キューブリックはキャメルにとって、そうありたい理想の映画作家であったようだ(上記フィルム・コメントの記事より)。『パフォーマンス』(70、製作は68)はサディスティックな暴力において『時計じかけのオレンジ』(71)と、『デモン・シード』(77)は、意識を持った人工知能の反乱において『2001年宇宙の旅』(68)と、『ホワイト・アイズ』(87)は、男の中に宿る狂気の突然の発現において『シャイニング』(80)と、主題ないし世界観を共有している。フィルム・コメントの記事は96年のものなので、キューブリックの『アイズ・ワイド・シャット』(99)を考慮に入れていないが、その公開後にこの記事が書かれていたならば、多様な性のありようを描いたそれは、当然『ワイルド・サイド』(95)に比されていたに違いない。

今回はネオ・ノワールを取り上げるつもりで全く別世界に来てしまった感がある。70年代になぜ改めてノワールが勃興したのかを探ってゆくつもりだったが、その歴史的背景については未だ筆者にも結論が出ない。もう少し幅広くイギリスの(そしてアメリカの)ネオ・ノワールを見てみねばならないのだが、今後ともこの路線で探求してゆくか(ゆけるか)はまだ分からない。

『ホワイト・アイズ』White of the eyeのDVDはオランダのMælströmから出ている。イギリスのアマゾンで買える。リージョンは2、Pal版、字幕なし。『ワイルド・サイド』Wild sideは、イギリスのTartanから出ている。おまけにドナルド・キャメルのインタビュー映像、短編『議論』The Argumentが入っている。リージョンは2、Pal版、字幕なし。