『デモン・シード』
キャメルの二つ目の作品は、ディーン・クーンツ原作のSFホラー。端的に言うと、自ら思考する能力を与えられたコンピュータが意識を持ち始め、自身の子供を、開発者の妻の肉体を借りて生ませてしまう、という物語。コンピュータが意識を持ち、人間に逆らったならという発想、また、悪魔の子という発想自体は、77年という時代を考えると結構ありふれたもののようにも思えるが(『ローズマリーの赤ちゃん』が68年、『オーメン』が76年)、しかしキャメルの作品として見ると、細部細部の特異性が見えてもくる。
例えば本作の最初のショットは、横になった女性の乳房のように見える山の端から太陽が昇るイメージであるが、これは、『パフォーマンス』後の71年に彼が撮った短編『議論』The Argumentの冒頭を思わせる。『議論』は、ユタのグランドキャニオンを舞台に、映画を撮っている男性の監督が、女優が台詞を脚本どおりに言わないので叱り付けるのだが、女優は、脚本がエゴ・セントリックだとやり返す、という十分ばかりの短編。女性は裸に首飾りのようなものをつけ、インディアンのようでもあり、原始の女神のようでもあり、監督は今風の服装ながら、創造主とも考えられ、そうするとこれは神々の対話というスケールの話と見ることもできる。その印象を強めるのは、乳房のような形をした山、男根のような形をした岩など、象徴的な形象の自然である。撮影はヴィルモス・ジグモント。この短編は完成されないまま放置されていたのを、後期のキャメルの協力者であるフランク・マゾッラという編集者が発見、再編集したもので、イギリス版『ワイルド・サイド』DVDのおまけになっている。
さて、意識を持ち始めたコンピュータは、開発者の自宅を管理するコンピュータに侵入、システムを乗っ取り、その妻(ジュリー・クリスティ)を監禁するのだが、彼が話す時、コンピュータ端末には紅い円が映り、また、研究室=工作室で、金属製の十二面体のような物体を作り、それは三角形が繋がったような触手を伸ばして、妨害者を攻撃する。こうした丸や三角といった幾何学模様は、彼が、監禁した開発者の妻を懐妊させるとき彼女に見せる、宇宙の神秘の映像にも現れる。要するにコンピュータの中に目覚めた「意識」は、そうした原始的図形によって表象されるのだが、こうした意匠も、この映画に潜在する神秘主義を明らかにするもののように思える。無機的な物質にも意識が宿る。宇宙の神秘は、生命ばかりでなく、宇宙上のあらゆる物体に分有される。実際コンピュータは、「宇宙に触れた」、と言っている。意識を持ち、宇宙の真理を掴んだコンピュータに、足りないものは「生命」であり「肉体」ばかりである。彼が子供を生もうとする(物理的な肉体を得ようと望む)のは、自分は額に日の当たるその温かみを知る知ることができないからだ、と言うのだが、なかなかいい台詞ではないか。彼は、ファウストやフランケンシュタイン博士の直系なのであり、禁忌を侵して触れてはならない神秘に触れようとする異端者なのだ。「デモン・シード」(悪魔の子種)といいながら、同じような主題のロマン・ポランスキー『ローズマリーの赤ちゃん』に比べても明るい印象なのは、キャメル自身、このコンピュータの赤ちゃんを、宇宙の神秘を体現するものとして、肯定的に見ているからである。
『パフォーマンス』と『デモン・シード』の二作は、それぞれワーナー配給、MGM製作配給で、アメリカのメジャーが関わる作品である(日本でも公開され、DVDで容易に見ることができる)。見てきたように、ギャング映画やホラーの形を取りながら、内容的にはアンダーグラウンド作品ということになる。アンダーグラウンド・カルチャーが表舞台に侵入するだけ、強力な影響力を持っていたことの証左であるとともに、60年代から70年代において、アメリカのメジャー映画自体が変質し、外部の血を入れることで延命していたことを示すものでもあるだろう。しかし、70年代、特にその後半において、アメリカ映画は反動期を迎え、ジャンル映画を大バジェットで製作する体制に入る(ただしメジャー社が、独立プロと一作一作共同製作、あるいは配給のみするもので、スタジオ・システム最盛期と製作体制は全く異なる)。アンダーグラウンドの志向性を持つキャメルがこうした場で活動をすることは難しくなる。しかし一方で、この頃から独立プロが独自なテイストの作品を全国規模で配給できるようになっていて、60年代的な多様性はある程度継承されることになってもいたわけで、キャメルは独立プロによって製作を継続する。とはいえ、その道程は厳しいものになってゆく。