『パフォーマンス』
本作は、冒頭から圧倒的な映像で見る者を魅惑する(あるいは困惑させる)。空を飛ぶ戦闘機から、画面はセックスする男女を手持ちカメラで接写したかと思うと、黒塗りの高級車を空撮で追う。その後、セックスしていた男がタクシー会社らしい所に入ってゆき、営業を妨害、どうやらギャングの一員らしいことが分かる。一方黒塗りの車の男は弁護士であるようで、法廷で、「これは乗っ取りではなく、合弁だ」とかなんとか、誰かを弁護するのだが、その被告である男が新聞の写真に載っていて、どうもこの男がギャングのボス、そして先ほどセックスしていた、そしてタクシー会社に押しかけて暴力を働いていた男が、そのボスの手下だと分かるまでには、相当な時間が経っている。ように思えるのだが、しかし、短い、しかも一見つながりのない映像が次々現れるので、ずいぶん時間が経過したような気がするだけで、その実数分しか経っていなかったのかもしれない。『パフォーマンス』は、その冒頭から、見る者の感覚を揺るがしにかかるわけである。
『パフォーマンス』のチャス(ジェームズ・フォックス)
大雑把に展開だけをまとめれば、サディスティックでマッチョなギャングの一員チャス(ジェームズ・フォックス)が、ボスの命令に従って、ある男の店の乗っ取りにかかるのだが、その男にチャスは恨みがあり、その男が自分を襲ったのを返り討ちにし、殺してしまったことから、組織に逆に追われる羽目になる、というのが映画の前半を形作る。この前半は、とにかく早いカッティングで、しかもアングルやサイズの異なるイメージがモンタージュされることで、強い衝撃が見る者に与えられる。冒頭のように、異なる二つの空間が連続するばかりでなく、店に向かうチャスの映像に、一瞬、店が破壊される映像が差し挟まれるなど、フラッシュ・フォワードも使われて、異なる時制もつなぎ合わされる(フラッシュ・フォワードを使った時間のカット・アップといえばジョン・ブアマンの『殺しの分け前/ポイント・ブランク』68が思い出される。時間処理という点ではブアマンの方が遥かに繊細かつ暴力的ではあるものの、短い時間での徹底的なカット・アップという意味では本作が今見ても遥かに衝撃的)。この前半部においても、二つの時空間がモンタージュによって(この場合は無理やり)結び合わされているのだが、二重性とその結合という主題は、後半においてさらなる展開を見る。
チャスはと或るアパートの地下室を借り、そこに逼塞することにするのだが、そのアパートのオーナーは元ロック・スターのターナー(ミック・ジャガー)で、彼は二人のガールフレンド(アニタ・パーレンバーグとミシェル・ブルトン)と暮らしている。もともとサディスティックでマッチョなチャスであったが、神秘家であり、イェーツやボルヘスの読者であるターナーに感化され、長髪の鬘をつけ、化粧をし、両性具有化してゆく(パーレンバーグの差し出す鏡によって、彼の胸にパーレンバーグの乳房が映り、まるで彼自身の胸に乳房が現れたように見える)。さらにマッシュルームによる幻覚の中、チャスのギャングのボスにターナーがなって歌を歌ったりする。結局ギャングはチャスの居所をかぎつけ、やってくる。チャスはターナーの頭を撃って殺し、自身は車で拉致されてゆくのだが、その顔はターナーの顔であり、チャスはターナーによって入れ替わられたらしい、という形で映画は終わる。
この映画がフィルム・ノワールと言いうるとすれば、それは前半部におけるチャスの暴力描写、ギャング組織から逃走せざるを得なくなるその運命的な成行き、そしてラストにおける逃亡の失敗に滲み出す苦い敗北感、そして(特に前半部の)衝突に満ちたイメージのモンタージュ、にあるだろう。この映画は一面、
以前の稿で取り上げた、マイク・ホッジスの『ゲット・カーター』(二つの作品は共に70年公開、ただし『パフォーマンス』は68年に撮影していながら、配給元のワーナーが渋り、公開は二年後になった経緯がある)と同様、イギリスにおいて勃興する新たなギャング映画の一翼を担うものであり、チャスの造形には、これも『ゲット・カーター』同様、サイコ的な実在のギャング、クレイ兄弟の影響が見られるのも確かである。しかし、ギャング映画としての側面は、あくまでこの映画の半面に過ぎない。反転、後半部は密室の中で、アイデンティティが、性別が曖昧になり、溶けてゆくのであって、そのアイデンティティの曖昧さというのも、フィルム・ノワールの典型的な主題であって、それを思えば、後半もノワールなのだ、と言えば言えるのかもしれないのだが、後半を支配するミック・ジャガーのポップ・アイコンとしての輝きや、神秘主義的な意匠の数々が、後半部をノワールから遠ざけているように見える。ともあれ本作は、スウィンギング・ロンドンの社会を、その繁栄の裏の暴力=ギャング社会、アンダーグラウンドにおいて神秘主義と表裏一体のポップ・カルチャーを中心に、ごった煮的に丸ごと投げ込んで表象した、優れて時代の子というべき作品である。
この作品は、ニコラス・ローグとの共同監督ということになっており、その後のローグの監督作品との視覚的な(あるいは『素晴らしき冒険旅行』の、原始的心性という主題との)類似性から、ローグの作品とみなされることも多いようだが、ローグの貢献は、やはりカメラマンとしての技術的なものが主であるようだ。前半のモンタージュにしても、ローグは始めのほうに付き合ったのみで、ほぼキャメル一人によるという(ルートリッジ社『ブリティッシュ・クライム・シネマ』所収のキャメル・インタビュー。ただしキャメル側の発言なので、すべてをそのまま受け入れるわけにもいかないだろうが)。