『長く熱い週末』承前
『ゲット・カーター』の稿に書いたように、イギリスにおいてはノワールはエロティシズムを脱色し、もっぱら男っぽい側面を強調することになるが、本作はその最も極端な例と言っていいだろう。確かにホスキンスの妻であるヘレン・ミレンがある程度の存在感を持って現われてはいるが、彼女に性的な誘因力はあまり感じられない。と言ってもまた逆にノワール特有のミソジニーが現れているわけでもなく、ただ単にこの映画で女性はあまり大きな役割を持たされていない、というかどうもこの監督は女性にはほとんど関心がないように思える(コリンはプールで男漁りをして、ブロスナンにシャワーにおびき出されて死ぬのだし、ボブ・ホスキンスがジェフを殺してしまった後、シャワーで血を流すなど、男の裸がしきりに映るのだが、これはやっぱりそう言う事なのだろうか。ただ、ホスキンスのシャワー場面は、一番の手下を殺してしまった後悔も洗い流す、という意味の場面で、ホスキンスが思い入れたっぷりに延々シャワーを浴びているのは、まあ、まだいいとして、そこに悲しげな音楽が高鳴っているので正直笑ってしまいそうになる。総じてこの映画、音楽は饒舌である)。
ともあれこれは成り上がり男の野望と挫折の物語なのであり、その意味ではよくあるタイプの話と言えば言える。ただ、この映画をそうした枠組ゆえの単純さから救っているのは、やはり先にも書いた通り、主人公同様、見る者にもその原因が一向に判然としないまま、事態がいよいよ悪くなってゆくその崩壊感覚である。ついさっきまで、自分が世界を支配しているかのような高揚感に包まれていたのに、いきなり正体の見えない敵によって攻撃されている。正体が分からないだけに、世界そのものが自分に敵対しているかのように思えるのである。同様の実存的な不安は、ラストの場面にも現われている。封じ込められ、どうにも行き場のない主人公。その閉塞感は、主人公に限らず、挫折、という人間の普遍的なありようを象徴的に示すだろう。その点で、初めてこの作品はノワールと言っていいのかな、という気がする(同じロンドンで撮られているから、というわけでもないが、その点ジュールス・ダッシンの『街の野獣』[50]のリチャード・ウィドマークを想起させる。ウィドマークは負け犬、本作のホスキンスは勝ち組という正反対の立場ではあるが、最終的に挫折し、追い詰められて閉塞する結末において共通する)。また、ノワールには社会批判的な側面があるわけで、その点、いよいよ新自由主義へと振り切ってゆくイギリス社会への違和の表明とも見える本作は、ノワールの社会批判的側面を担っていると言える(ただし、実はイギリスのノワール―古典期であれ、ネオであれ―にそうした側面は薄いのだが)。
本作は、
前回取り上げた『ゲット・カーター』からしてもさらに十年後の作品であり、相当新しい作品ではある。監督は次項に詳述するが、TV出身の監督。まあ、これは『ゲット・カーター』のマイク・ホッジスもそうなのだが、しかしその十年の差なのか、単に個人的な資質なのか、本作には映像としての惹きが弱いのは確かである。何よりフレーミングが緩い。全編あまりロングは使用されず、もっぱらクロース・アップとミドル・ショットで、そのメリハリのなさ。また場面の中心になる人物をカメラを振りながら捉え続けるのだが、その持続もどこか緊張が感じられない。先述したように音楽も説明的。確かにこの当時この映画が出て来た意味も分かるし、まったく駄目な映画ではないとしても、やはり画面に驚きが無いのは今見直すに辛い所があるのは確かなことだ。