『十月の男』つづき
さて、殺人の犯人は途中で判明する。被害者をつけ回していたビジネスマンである。彼は主人公に向かって堂々と、自分が犯人だと告白するのだ。しかし証拠がない(というか、被害者が被害にあう直前に最後に愛人に送った手紙があるのだが、犯人はその愛人に、疑われたくなかったら手紙を焼けとひそかに説得していた)。彼はこのホテルを引き払うための荷造りをゆっくりとしながら、なぜ女を殺すに至ったのか、を主人公に話す。主人公が来るまでは、彼女は自分を頼りにしてくれたのに、お前が来たおかげで自分は見向きもされなくなった、というのだが要するに逆恨みである。しかも、彼がこのホテルに寄宿しているのも、町で偶然見かけた彼女のあとをつけてのことだという。確かにこの男は気が狂っているわけではないのだが、その行動、心理は微妙な歪みをもっている。大音響のノイズ、というわけではないのだが、ずっと聞こえ続けている不協和音のような違和感。告白されている内容自体は異常なのに、画面そのものは、さしたる映像的技法もなく、淡々とした切り返しで演出されているのもその違和感を増幅する。
結局証拠らしい証拠もなく、主人公は追い詰められてゆく。しかしビジネスマンの男が、警察に述べていたように田舎に引っ込むのではなく、海外に逃亡しようとしていることを部屋に残されたチケットの控えから知った彼は、既にホテルを発ってしまったビジネスマンがどの飛行機に乗ろうとしているのかを突き止めるべく、その行方を追う。折から遂に主人公に逮捕状が出て、主人公は警察から逃れながら、犯人を追うことになるのだが、実はその追いつ追われつにこの映画の面白みがあるわけではなく、主人公がとうとう犯人が乗る飛行機を突き止め、警察にその事実を知らせるも、警察がそれを信用しない、という展開にある。主人公は絶望し、陸橋にたたずみ、白い煙をあげ、汽笛を鳴らしながら近づく列車を見下ろす。実は汽笛は、映画の冒頭から死の予兆のようなものとして、折に触れ鳴りつづけていたものだ。主人公の手にはウサギの形に結んだハンカチが握られている。汽車が近付き、主人公は白い煙に覆われて見えなくなる。ハンカチが、列車の車輪によって踏みつぶされ、破れ去る……。
およそ想像はつくだろうが、モデルが愛人に送った手紙が警察に届けられ、ようやく真実に気付いた警察は、犯人を搭乗口で捕えることになる。主人公は死なず、駆けつけた恋人に、自分は死の誘惑に負けなかった、と告げ、二人が抱き合って映画は終わる。デウス・エクス・マキナ、ご都合主義。それは確かであって、これで主人公が死んで終わっていたら、その暗さゆえに興行的に当たりはしなかったろうが、救いようのなさに或る意味カルト的な評価がなされていたのでは、と思わないではない。先に書いた、主人公の精神的欠陥という設定も(ただの説明に終わっていないにせよ)取ってつけたようだし、犯行が行われていた頃、主人公に、自分がどこでどうしていたか記憶がないという設定も雑な感じがして、欠点がないわけではない映画である。しかし、おそらくイギリス社会の性格とも関係があるのだろう閉鎖的な社会の中で、じわじわと真綿で絞められるように追い詰められてゆく主人公の孤独感がひしひしと伝わってくるのは確かで、そこにこそこの映画の魅力はある。
前回のカヴァルカンティ『私は逃亡者』のような犯罪世界ではなく、ごく日常的な世界を描き、その中に潜む悪意を描いているのもこの映画の特徴。同じように日常生活の閉鎖性、陰鬱さを描いた作品に、ノワールに分類されることもある、これまた47年のイーリング作品、ロバート・ヘイマー監督の『日曜はいつも雨』It always rains on Sundayがある。恋人が犯罪に手を染めて逮捕され、生活の安定のために年上の男と結婚した女のもとに、脱獄した男が逃げ込んでくる。凡庸な生活にうんざりしていた女は、情熱を取り戻すかに見えたが、男が自分を利用しているだけと知り幻滅する。これら二作の映画には、イギリスの戦後の世相が反映されているように見える。戦後の混乱が収束し、平穏を取り戻したとはいえ、結局戦前となんら変わりない、どころかむしろ悪くなってすらいるのかもしれない社会。一等国から転落し、収縮してゆくイギリス。しかし安易な社会反映論は慎んでおくべきかもしれない。