『十月の男』
さて、『十月の男』である。この映画は、殺人犯と疑われる男の苦悩を描いているが、これがただのサスペンスというよりノワールに分類していいだろうと思えるのは、やはり何と言ってもこの映画の持つ暗さによる。この男は、周囲の悪意によって追い詰められてゆくのだが、その悪意の暗さもともかく、彼はもしかしたら本当に自分が犯人なのかもしれないという一抹の不安にさいなまれるのだ。彼はある出来事によって精神に欠陥を抱えているのである。映画の冒頭は、夜、雨の中を疾走するバスに始まる。このバスに主人公が乗っている。隣には少女がおり、彼はハンカチでウサギを作って彼女を喜ばせる。しかしバスは悪路のせいでどこかのネジが落ち、車輪がバランスを失って崖から転落する。道端に落ちたハンカチのウサギ。場面変わると頭部のレントゲン写真が映り、不吉な印象を観る者に与える。既にあの事故から数年が経っており、医者たちの会話から、主人公が頭部の骨折で脳に障害を負ったこと、少女が主人公の友人夫妻の子供であり、彼が預かっていたらしいこと、主人公が、障害のためばかりでなく、少女を死なせた自責の念から、何度か自殺未遂をしていたこと、が分かる。今日は彼の退院の日である。
主人公が事故で精神的に障害を負っている、という設定は、アメリカのノワールで戦争後遺症に悩まされる男たちの物語のそれに通じるだろう(マンキーウィッツの『記憶の代償』など)。しかし戦争からいささか時間が経ち、そうした設定を戦争に関連付けるのは難しかったということかもしれないが、いずれにせよ上記の事故場面は、主人公に不安定要因を与えるというためだけのためにある。しかし雨の中を疾走するバスの不穏な印象や、ドクロのように見えるレントゲン写真の不気味さが映画全体のトーンを予告し、そして何より以後も重要な役割を果たすハンカチという小道具をさりげなく導入している、という意味で、説明的な(そして少々ご都合主義的な)場面を単に説明で終わらせない巧みさをみせている。
さて、退院した主人公はエンジニアとしての職に復帰、とあるホテルに寄宿することになる。そこにいるのは、寒いのでもっとストーブに石炭を入れてくれと繰り返す老婆、トランプをしながら人のうわさ話に興じる老婦人とその取り巻き、贅沢をしたいため妻子ある男の愛人になっている派手なモデル、そのモデルに恋慕し、彼女に頼まれて金を貸しているが、見向きもされない初老の引退したビジネスマン、など。主人公は病み上がりでもあり、彼らと付き合おうとせず、とりわけトランプする老婦人の誘いを断ったことから白い目で見られるようになる。仕事は順調に進み、上司の美しい妹とデートを重ね、結婚を考えるまでになる。一方、自分に付きまとい、監視しているビジネスマンを遠ざけるため、隣人のモデルが主人公に好意を寄せているかに見せかけたりすることから、ビジネスマンは彼に悪意を抱き始める。ちなみに「十月の男」というのは、星占いが好きなモデルが、彼が十月生まれと知り、十月生まれは人生を大いに楽しむ人、と告げることからきている。無論これまでの苦しみに満ちた時間、さらにこれから主人公が陥ることになる事態を考えれば、皮肉な題名であるということになる。
別に奇矯な人々ではなく、どこにでもいるような人々ながら、どこか閉鎖的で、陰湿な悪意を持つ面々を、ささいなエピソードを重ねながら描き、そうした環境で主人公が次第に孤立してゆく様を説得的にする。こうした中、モデルが公園で殺害されているのが発見され、遺体の近くに、その夜急に彼女に頼まれて主人公が貸した金の小切手があったことから、彼が疑われる。ビジネスマンは、主人公が女の部屋に毎晩行っていたと嘘をつき、トランプの老婦人は、そういう重要な事実は警察に知らせないと、と善意の通報者を演じる。主人公自身、その夜、恋人と会った後、公園を通って帰ってきたにはきたのだが、はっきりした記憶がない。しかし自分がやったはずはないと漠然とながらも確信する彼は、自分を陥れようとするかのような周囲の悪意にいら立つ。警察も彼を疑い、任意の尋問を繰り返す。いら立ちを隠せない彼に、刑事は自分が思い浮かべる犯人像を描きだす。犯人は自分が世間から迫害されていると思い込んでいる、精神的に歪んだ男、パラノイアなのだ、と。刑事は主人公の前に、彼を威圧するように立ち、主人公は見下ろされている。僕が殺すはずがない、そうじゃないですか、と必死に主人公は叫ぶのだが、彼の両手は額の汗をぬぐっていたハンカチの両端を強く引き、いつの間にか出来ていた結び目がブルブルと震えている。まるで首を絞めているかのように。