ロンドンとリリアン・ギッシュ Text by 大塚真琴   第4回 リリアン・ギッシュⅠ
メアリ・ピックフォード
二人の姉妹をグリフィスに引き寄せたのは一本の映画だった。1912年の6月、ボルティモアのニッケルオデオンで『Lena and the Geese』(リーナと鵞鳥。“野生の花”の題名で1915年に日本公開)という映画を観ていた姉妹は、映画の中に幼い頃一時期一緒に暮らしていたことがある、グラディス・スミスという少女がいるのを発見したのである。当時、映画は舞台よりも低俗という考えはまだ根強く残っていたから、当然メアリ・ギッシュは舞台に出ていたスミス一家がさらに落ちぶれたのではないかと考えた。それから、姉妹は母親を伴ってバイオグラフ社に幼馴染を訪ねて行ったのである。

メアリ・ピックフォード
グラディス・ルイーズ・スミスは、リリアンよりも1歳と少し上で、ロッティという妹とジャックという弟がいた。父親はグラディスが5歳の時に脳出血で亡くなり、残された家族は生活するために舞台の仕事を始めたのだった。彼らの父親は元々夢想家で仕事が無いことが多く、アルコール中毒の可能性も指摘されている。亡くなる数年前には家庭を捨てていた。グラディスは子役としていくつもの舞台に立った後、デイヴィッド・ベラスコへのアプローチを続け、ようやく実現した面会の場でメアリ・ピックフォードという名前に変えられた。そして、1907年のウィリアム・C・デミルによる芝居「The Warrens of Virginia」(ヴァージニアのウォレン一家)でベラスコの女優として舞台に立ったのである。しかし、生活は楽ではなかった。
ピックフォードは1909年の『Her First Biscuits』(彼女の最初のビスケット)に出演して以来、グリフィス映画の常連となっていた。1911年にインディペンデント・モーション・ピクチャー・カンパニへ移り、さらにマジェスティック社で5本の映画に出演し、1912年に再びバイオグラフ社で映画に出演していた。自ら脚本を書くこともあり、リリアンとドロシーが観た『Lena and the Geese』はピックフォードの脚本による映画だった。ピックフォードが鵞鳥を可愛がる田舎娘を好演している。
ピックフォードは1913年にフェイマス・プレイヤーズ・フィルム・カンパニのアドルフ・ズーカーと契約を結び、これをきっかけにアメリカで最も人気のある映画女優となって行った。ピックフォードが映画に出演し始めたのはやはり家計を支えるためで、すぐにお金が入る映画の仕事をすれば家族揃って暮らすことができると母親に言われたせいだった。1909年から1912年の間にピックフォードはおよそ150本の映画に出演した。
リリアンとドロシーは、ピックフォードの紹介でグリフィスの元で仕事をすることになった。ピックフォードはベラスコから「A Good Little Devil」(善良な小悪魔)の主役を持ち掛けられ、1912年の10月から11月にかけて撮影された、アニタ・ルース脚本による『ニューヨーク・ハット』への出演を最後にバイオグラフ社を去った。リリアンとドロシーはちょうどピックフォードと入れ替わるような具合でバイオグラフ社に入ったのである。もともと自立心の高いピックフォードはグリフィスの演出の仕方には不満もあったようで、後の作品を観ても、明らかにピックフォードとグリフィスでは映画に対する考え方が違うことがわかる。ピックフォードのほうが、映画はエンターテイメントでありビジネスであるという考えが非常に強いのである。

こうして映画女優として働き始めたギッシュ姉妹であるが、親友のネルに宛てた手紙からは、映画に出演し始めたリリアンがそれほどこの仕事に希望を見出してはいないことが伺える。1912年の12月から翌年の初めにかけて、リリアンが「A Good Little Devil」の妖精役を得てグリフィスの元から離れていたのは、映画に対してもグリフィスに対してもまだ不安があったことを表わしているように思う。逆にドロシーの方が映画にはずっと興味を抱いていたようだ。リリアンがこの仕事がおもしろくなってきたのは、いくつか自分の新境地をひらく作品ができて、グリフィスが映画技法の先駆者としてその名を広め始めた頃だった。それが意欲に繋がったのである。