映画化への道のり
橋本は『七つの弾丸』のシナリオによほど自信があったらしく、東映で映画化される以前、キネマ旬報誌上で岡田晋の質問に答えて、次のような発言をしている。
「『七つの弾丸』はもっと進化した映画です。もっと大胆な、もっと新しい映画の手法を使った実験のつもり。なぜかと云うと、『張込み』にはやはりストーリイの因果関係が一つの線になって通っていて、それにそって話が展開して行く。『七つの弾丸』には、最後にストーリイをむすびつける場が用意されているが、そこに行くまでの各挿話には全然因果関係がないでしょう。従来のコンストラクションの常識を無視することを狙った、と云うより、最後にテーマを効果的にあらわすためには、あの方法が一番いいと考えたからやったのです。ぼくとしては最高の野心作で、さらにこの線を追求してみたいと思います」(「シナリオ作家・橋本忍」~「キネマ旬報」1959年3月上旬号所収)
東宝で『七つの弾丸』の企画が流れたのち、橋本は、日本で封切られ、ポーランド映画のブームを先導した『影』(1956年、日本公開=1959年1月、イェジー・カヴァレロヴィチ監督)を見る。『影』は戦中戦後の3つの無関係に見えるエピソードが時間軸を行ったり来たりしながらオムニバス風に描かれ、最後に一本の線でつながってくるという構成を持っている。橋本はこの作品は高く評価し、自分のやり方が間違っていないという確認を深めていく。
だが肝心の『七つの弾丸』の映画化は、東宝の手を離れ、いつのまにか山村聰の監督作品『蟹工船』(1953年)など社会派作品をいくつも製作した独立プロ、現代ぷろだくしょんが手がけることになっていた。実は橋本忍脚本で東映が映画化するはずであった『真昼の暗黒』が東映では難しいということになって、代わって製作したのが現代ぷろだくしょんであった。橋本忍と今井正の続く協同作業『夜の鼓』もこの独立プロが製作している。おそらくその関係で東宝での映画化が流れ、大手での映画化を断念した橋本がこの独立プロに企画を持ち込んだのだろう。そしてプロデューサーの山田典吾の下、橋本は脚本のみならず、第1回監督作品としてこの『七つの弾丸』で監督デビューを予定する。橋本はそれだけこのホンに執着していたのである。
だが結局この独立プロでの製作も頓挫し、橋本忍の監督デビューの話は流れてしまう。もともと山村聰、森雅之、夏川静江ら、俳優たちが集まって作った現代ぷろだくしょんだが、当時五社協定違反1号俳優として五社を追放され、日活の専属契約から離れてフリーになったばかりの三國連太郎も身を寄せていた。三國はここを根城に、『異母兄弟』(1957年、家城巳代治監督)、『夜の鼓』、『荷車の歌』(1959年、山本薩夫監督)など、数々の独立プロの映画に出演する。そして1959年、他社出演を認めるという異例の条件で、東映と専属契約。一方『真昼の暗黒』の企画を流産させられた橋本忍にとっては、『七つの弾丸』の映画化は、いわば仇討ちのようなものだったのだろう。こうして『七つの弾丸』は東映でようやく日の目を見ることになった。
しかし、前述したように、東映での映画版は「映画評論」版にあった野心的な構成は改変され、やや後退したものであったことは否めない。「映画評論」版を読み、シナリオ発表当時からこのホンの斬新さを高く評価していたキネマ旬報の岡田晋は、完成した東映の映画版を見て、「判りやすくなったかわりに、最初の実験的な意図が薄められ、それと同時に、何か一番大切なものが失われてしまった感じである」(「キネマ旬報」1959年11月下旬号)と評した。同時に三國連太郎以下俳優たちのオーバーアクトにも苦言を呈している。確かに三國はいつもの憑依したような過剰な芝居だし、もう一人、クサい芝居を売っている伊藤雄之助の芝居も十分濃厚で、その反面、久保菜穂子、能沢桂子など若い女性たちの存在感が希薄な感じがする。
だがそれであっても、やはり橋本忍の野心作が、東映東京で最も脂の乗っていた時期の村山新治によってセミドキュ風に映画化されたということを喜びたい。実際に起きた事件の映画化ということといい、街頭ロケを多用したセミドキュのスタイルといい、ちょっと前なら新東宝やその衛星プロが製作したような作品が、当初の志から若干後退したとはいえ、このような知的なアプローチに溢れていることは驚くべきことだろう。あまり知られていない作品であるが、それだからこそもっと注目されてもいい作品だと思うのである。