村山新治のセミドキュ演出
メインの凶悪犯罪を犯人の側から描いていき、その事件に巻き込まれ命を落とすことになる三人の犠牲者のそれまでの生活と、その恋人や家族の話が平行に交互で描き出され、銀行襲撃と逃走というクライマックスで一挙に合流する作劇は、まるで何本もの細い麻縄を撚り込みながら太い一本の縄にしていくような作業に似ている。後年のロバート・アルトマンが得意にした群像劇、ポール・トーマス・アンダーソンの『マグノリア』(1999年)の先駆ともいえるかもしれない。だがこの映画ではさらにナラタージュを使って途中で時制を遡って、主人公の犯罪者・矢崎の生まれや職歴、三千代との出会い、さらに拳銃を入手して起こした過去の犯罪が挟みこまれるという、すこぶる高度な構成をとっているのだ。にもかかわらず、アルトマンや『マグノリア』のように3時間近い映画ではなく、たった90分にも満たない二本立てのプログラム・ピクチュアの1本なのである。
村山新治の演出も、刑事の側から事件を描いた『警視庁物語』シリーズと正反対に、犯人と彼が起こした事件に巻き込まれた三人の一般人とその身内に焦点を当てながら、『警視庁物語』シリーズ同様に、事件の背後にある社会問題を浮き彫りにして、単なる犯罪映画に終わっていない。『警視庁物語』シリーズで培ったセミドキュのスタイルは本作でも発揮され、おそらくほとんどの場面はロケーションで撮影されたのだろう。銀行襲撃の舞台となる新橋の大通りに面した銀行や交番付近の建物や通りを走る車、町を歩く人々、銀行襲撃に驚いて右往左往する人々の様子を、まるで隠し撮りかと思うような迫真性で描き出して、実に生々しい。
襲撃犯が銀行を襲撃したあと、車を乗り継いで逃走する場面も本当にその道順を走りながら撮影したのではないだろうか。ちょっと前であれば、車のフロントガラスや車窓から見える外の風景は、ハメコミかバックプロジェクションで処理したはずだが、本作では逃走する車の背景を流れていく道路や町の景色がすこぶるリアルで、ドキュメンタリーを見ているような圧倒的な実在感がある。
撮影を担当したのは仲沢半次郎。どちらかといえば、関川秀雄とコンビを組むことが多く、『警視庁物語』でもシリーズ後期を担当した佐藤肇と組んだが、村山新治と組むのは本作が初めて。東映東京の路線変更に伴い、通称『夜の青春』シリーズを関川秀雄とともに撮り始めた村山とは、『いろ』(1965年)、『夜の悪女』(1965年)、『夜の牝犬』(1966年)、『赤い夜光虫』(1966年)、『夜の手配師』(1968年)などで本格的にコンビを組み、夜の世界に生きる男女の生態を生々しく切り取っていくことなる。
また本作は前述したようにかなり複雑に構成された脚本であるにもかかわらず、的確で効率的な描写で、無駄を削ぎ落とし、メリハリのある演出で最大限に効果を発揮したことも特筆される。たとえば、橋本忍が弟子の國弘威雄と共同で執筆した東映『空港の魔女』(1959年、佐伯清監督)と、その脚本をそのまま流用した松竹『その口紅が憎い』(1965年、長谷和夫監督)という作品を比べると、いくら構成力に定評のある橋本忍作品といえども(70年代以前に限るという但し書きは付くが)、演出力が歴然としていて、後者は弛緩した演出で見るに耐えないという事実によって、監督によって出来上る映画の印象や出来はまるで違うということを証明していることは書いておかなければならない。つまり『七つの弾丸』の美点は、橋本忍の見事な構成による脚本を、セミドキュのスタイルのきびきびとした演出で映画化した村山新治の協同作業にあるといってもよいのだ。