失敗の原因
ストーリーだけ追っかけていくと、発端はアイラ・レヴィンの「死の接吻」であっても、これならオリジナルといってもいいように思う。菊島隆三の証言にもあるように、『陽のあたる場所』を参照にした形跡もあるが、許容範囲だろう。
前半は木村功演じる尾形の独白が所々入る。彼には親指の爪を噛む癖があり、その癖を、彼を愛する佐久間良子演じる美千代が真似する場面があるが、その癖は野心家の彼を子供っぽく見せている。また刺身は食べられないが寿司は食べるというのも同様。それから田舎の貧しい家の出身という設定のわりに、上流社会に対しての憧憬や嫉妬が強く感じられず、設定にあるような強い野心家に見えず、ただ子供っぽくだけに見えるのも欠点だろう。そのため彼が偶然社長の臨終の場に居合わせたため、とっさに嘘をついて利用したようにも見える。事実、公開当時の批評も、そうした偶然性によってストーリーを進めていくことに対して不満を指摘した批評が多い。
要するに、この主人公は、アイラ・レヴィンの小説のようなデーモニッシュな主人公とは縁遠く、『陽のあたる場所』のモンゴメリー・クリフトのように切実な昏さがあるわけでもなければ、『太陽がいっぱい』(1960年、ルネ・クレマン監督)のアラン・ドロンのような才気に溢れた狡知さがあるわけでもなく、野心的というよりもただ卑屈で見栄っ張りの小ずるい青年がその場しのぎの犯罪を重ねているようなのだ。ワイシャツの襟が汚れているのにクリーニングに出さず、もったいないからベンジンで拭いておいてくれと下宿のおばさんに頼み、翌日社長にだらしなさを注意されるという場面も、貧しいというよりせこいという印象しかもたらさない。これが木村功ではなく田宮二郎あたりが演じていたらまた印象は大きく変わっただろうが、やはりどうしても主人公のキャラクターの掘り下げ方の甘さなど、脚本の不備が目立ってしまう。
脚本について菊島隆三は「この作品も第一稿の時は、何とはなしに監督の注文をきいて失敗したので、あとはまた、自分のペースに戻した。はじめて組むとよくそういうことがある」(前出「崖」雑感)と書いているが、一方の今井正は「菊島くんのシナリオに少々無理があったようです」(「今井正「全仕事」、映画の本工房ありす刊、1990年」)と述べている。しかし、この映画の失敗は脚本の構造のせいだけにはできないだろう。ブルジョワ家庭の描写は、盟友・山本薩夫のほうが遥かに巧いし、サスペンスの盛り上げ方も巧いとはいえない。そうなると、かつて大島渚が指摘したように「今井正ヘタクソ論」を支持したくもなる。むしろ、本作で助監督を務めた佐藤肇ならもっと上手に映画化したかもしれない。そう考えると、やはりアイラ・レヴィンの「死の接吻」の直接的な映画化を断念した段階で、最初に企画した『陽のあたる場所』の日本版を目指し、貧しい生まれの青年の野心と挫折を今井正らしく映画化すべきだったと、今さらながら残念に思えてならない。