『警視庁物語』シリーズ事始
『警視庁物語』シリーズ第1作『警視庁物語 逃亡五分前』(1956年、小沢茂弘監督)では、プロデューサー(企画)として坪井與(彼もまた元満映組)に次いで斎藤安代の名前がクレジットされているが、シリーズ第3作『警視庁物語 追跡七十三時間』(1956年、関川秀雄監督)以降、斎藤安代一人のクレジットになる。シリーズ第21作『警視庁物語 全国縦断捜査』(1963年、飯塚増一監督)以降、登石雋一の名前が加わり、最終作のシリーズ第24作『警視庁物語 行方不明』(1964年、小西通雄監督)まで再びダブル・クレジットになる。しかし、『警視庁物語』は斎藤安代が発案し、長谷川公之とともに育ててきたシリーズなので、実質的なプロデューサーは斎藤安代と言えるだろう。
斎藤和代の回想。「1955年の秋、企画見習者の私は、企画本部長の坪井さんに呼ばれ、次のように言われた。「2月封切の東撮の娯楽版(短尺もの)を企画しなさい。予算はこれこれ。何をやってもよいが、やはりアクションものがよいかな。監督は小沢茂弘君の予定です。/それより前、日活の製作再開で、東映も3人のプロデューサーを引き抜かれ、会社は大童で企画者を発令した。(略)初めて一本立ちの仕事を命じられ、緊張したが、かねてやりたいと思っていた企画があった。ジュールス・ダッシンの『裸の町』という作品がある。ニューヨークを舞台にした捜査もので、派手な撃ち合いもなかったが、リアリティーがあって魅き込まれて行く。新しい文体を感じた。/また、その年東撮は『終電車の死美人』を送り出している。小林恒夫監督の名作で、私はこれはシリーズになりうると考えていたが、続編の気配なく、惜しいと思っていた。/早速、『警視庁物語』というタイトルの捜査ものということで坪井さんの了解をもらった。脚本は長谷川公之さんにお願いした」(「クロニクル東映Ⅱ 1947―1991」(東映、1992年)。補足しておくと、当時は全プロ二本立てに向けて撮影所のスタジオはフル回転で稼働しており、セミドキュでロケ主体だと撮影所にセットを組まずに済むという利点もあった。
長谷川公之は、かねてより念願だったリアルな犯罪捜査映画を作ることができると喜んで、斎藤の話に耳を傾ける。斎藤は、セミドキュのスタイルで犯罪捜査ものがやりたい、併映用の中篇映画なので2本一緒に撮影する、ただしギャラは1本半分しか払えないなどなどを話した。それに対して長谷川は二つ返事で快諾するがひとつ条件を出した。物語の展開を刑事側からの一元的描写で貫くことである。
「一ト口に犯罪捜査ものと云っても、
① 刑事側から一元的に描写する(例・『裸の町』)
② 刑事側の一人が、犯人側の世界に潜入して二面的に描写する(例・『情無用の街』)
③ 刑事側と犯人側を、随意に選択描写する(例・ギャング映画の過半数)
と、三つの手法があるようです。
旧作『青い指紋』以来、ぼくは専ら、①の手法によって、もう既に、八本の捜査ものを書いて来たわけです。/その理由は、③は安易すぎ、②はスター中心になり易いと云う点で夫々、魅力がないからです。/然し、①の手法によって書いたシナリオは、どうしてもロケーション本位の構成になりやすく、随つて撮影の際、現場処理がシンドイと云う、そしりをまぬかれる事が出来ません。
その結果、しばしばロケ・シーンの割愛を強制されてしまいます。/が、前作(引用者注:『警視庁物語 逃亡五分前』)では一シーンも割愛されず、豊富なロケーションが、画面で大きな効果を挙げていたようです」(オリジナル・シナリオ『警視庁物語 追跡七十三時間』『警視庁物語 白昼魔』、「作者の言葉」、「月刊シナリオ」1956年12月所収)
『警視庁物語 逃亡五分前』ポスター
『警視庁物語 魔の最終列車』ポスター
『警視庁物語 血液型の秘密』
当初東映側は「ドラマがない」「犯人側からのカットバック描写で<サスペンス>を作れ」と要求した。長谷川は斎藤と共謀して、中篇映画2本撮りという条件であるから、2本のうち1本は自分たちの主張する刑事側からの一元描写のみで描いて、もう1本は会社側の要求を容れて犯人側からのカットバックも入れるということで、それぞれシリーズ第1作『警視庁物語 逃亡五分前』(1956年、小沢茂弘監督)と、少々ギャング映画仕立ての第2作『警視庁物語 魔の最終列車』(1956年、小沢茂弘監督)を作ることにした。
ちなみに現場サイドでも、ほぼ同じスタッフ編成の2本撮りの体制が敷かれ、取調室のような同じ場面や同じ方面のロケ地は、まとめて同時進行の形で撮影された。このやり方は長篇以外、シリーズを通じて踏襲された。
完成した2本の作品を社内試写した結果、刑事側からの一元描写に徹した『逃亡五分前』のほうが好評で、シリーズの基本形ができあがった。そしてシリーズは8年間で全24本(内5本が長篇)の『警視庁物語』が作られた。
「その八年間に、ぼくは警視庁を広報課に転じたのちに退職し、『警視庁物語』シリーズはブルー・リボン賞を獲得した(引用者注:個人賞ではなく特別賞枠の団体賞として)。/大スター中心主義の時代劇で他社を圧していた東映映画の中にあって、ノン・スターとロケーション撮影多用という低予算方式で新鮮な映像の魅力を駆使したこのシリーズは、東映現代劇に新生面を拓くと共に、また有能な新人監督の誕生と育成に寄与する登竜門としての役割も果たすことになった。/村山新治、若林栄二郎、飯塚増一、島津昇一、佐藤肇、小西通雄などが、その人びとである。/一方、このシリーズの各作品に集団として登場する刑事の役にも、南原伸二(宏治)、関山耕司、波島進、大村文武、中山昭二、千葉真一――などの新人男優たちがスターへの登竜門として順次起用されたが、シリーズ全作品に出演した神田隆(捜査主任)と堀雄二(部長刑事)のほかは、花沢徳衛、南広、山本麟一、須藤健、佐原広二たちがレギュラー・メンバーとして、七人の刑事たちによるチーム・ワークを形成することになった」(「めもらんだむ」、「長谷川公之シナリオ・コレクション 警視庁物語」、アートダイジェスト、1994年)
当初モノクロ・スタンダードだったフォーマットは、第6作『警視庁物語 夜の野獣』(1957年、小沢茂弘監督)からワイドに拡大。シリーズの終盤には、斎藤安代が第23作あたりからカラーで撮影したいという抱負を語っている。「この場合ストーリーは色を生かして、色による科学捜査(たとえば交通事故の場合、車の塗料の色から、また被害者の着衣の色から、といったぐあいに)を中心に構成する」(「日刊スポーツ」1962年9月30日)。だが、それは実現しなかった。
なお、『警視庁物語』シリーズは、ネガは破損して見ることができないシリーズ18作『警視庁物語 謎の赤電話』(1962年、島津昇一監督)を除く23作品が、ネット配信されている。以下はその代表的なウェブサイト。
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