長谷川公之について
「シナリオ別冊 犯罪捜査大百科 復刻版 2013年 03月号」
『警視庁物語』シリーズ全24話のすべての脚本を書いたのが長谷川公之である。警視庁刑事部の鑑識課で法医技師を勤め、長らく二足の草鞋を履きながらの脚本家であったという異色のキャリアは、日本映画史、否、世界映画史上でも稀有な存在であろう。
1925年6月25日、東京生まれ。虚弱体質だったため、人ごみは嫌いだったが、小学生を卒業する年に見た『オーケストラの少女』(1937年、ヘンリー・コスター監督)で映画の魅力に開眼。国立千葉大学医学部在学中に脚本家の久板栄二郎主宰の戯曲シナリオ研究所に入り、シナリオの勉強をはじめる。在学中は関東学生映画連盟を組織する。1950年、大学を卒業すると、映画に没頭することを案じた実業家の父親との約束を守って、警視庁刑事部鑑識課法医学室に勤務し、検死や死体解剖などの実地に立ち会う。
その一方でシナリオの勉強も怠らず、オリジナル・シナリオ『君と行くアメリカ航路』が新東宝で、轟夕起子主演で映画化される(1950年、島耕二監督)。ただし轟の怪我によって封切りは第2作『東京のヒロイン』(1950年、島耕二監督)のほうが先になった。『東京のヒロイン』のシナリオが掲載された映画雑誌「映画春秋」を読んだ脚本家の井手俊郎の誘いで、藤本眞澄が東宝を辞して旗上げしていた藤本プロの同人となる。
この頃、長谷川は勃興してきたハリウッド産のセミドキュ『裸の町』と、イギリスのFLDF(fact like detective fiction)の代表作『兇弾』(1950年、ベイジル・ディアデン監督)(
Jフィルム・ノワール覚書④ 『暁の追跡』について参照 )を見て、警視庁に勤務する自分の仕事と重ね合わせ、いつしか日本でも作り物でない、リアルな犯罪捜査映画ができないものかと夢想する。
その後、法医学室ではシナリオも書けるという特異な才能を認められ、広報課に転属になり、警視庁の記録・PR映画を企画・監督するようになる。「警視庁に16ミリのドイツ製のいい撮影機があることが分かったんですね。(略)深川で早朝に自動車強盗で運転手が刺されて売り上げ持って逃げられたという事件があって、その現場に行くことになったんですよ。朝の野外現場だから照明は必要ないし、これはいいと思って、これをドキュメンタリーで撮っちゃおうと。(略)そこにナレーションとレコードで音楽を入れて、曲がりなりにも23分ぐらいの『深川自動車強盗殺人事件』というのを作ったんですよ」(「インタビュー長谷川公之」、「月刊シナリオ)2000年6月号所収)。このときのエピソードは、シリーズ第1作『警視庁物語 逃亡五分前』(1956年、小沢茂弘監督)で生かされることになる。また、シリーズ第6作『警視庁物語 夜の野獣』(1957年、小沢茂弘監督)の中で、捜査三課のスリ専門の刑事(加藤嘉)がスリの手口を解説した参考用の16ミリ・フィルムを見せる場面があるが、これは長谷川が製作した作品を流用したものである。
平日の昼間は警視庁に勤務しているため、脚本は土日曜日以外は夜中に執筆。当初はラブロマンスや青春映画のシナリオを執筆していたが、独立系の新理研映画と仕事をした6作目の『青い指紋』(1956年、青戸隆幸)ではじめてリアルな犯罪捜査を描いた。「製作が、所謂五大劇映画会社でなかったので、製作条件のマイナスをプラスに切換えようとノン・スタア、オール・ロケーションで、俳優費やスタジオ・レンタルを節約しながら、然も一本のフィチャアとして通用するように努力したつもりでした。事実製作費も、普通のプログラム・ピクチュアの半分足らずで済んだそうですが、撮影の中途で、左前になりかけていた本社の資本が焦げついてしまい、三分の一を撮り残した儘中絶。二ヶ月後に再開したときは、既に解散していた旧スタッフが急遽最小限を撮り足し、音楽はレコードからの再録音で間に合わせた上、配給に乗せられました」(「新世代シナリオ作家の主張」、「キネマ旬報」1953年6月下旬号所収)。
DVD『殺人容疑者』
『サラリーマン 目白三平』パンフレット
続いて構成を担当した電通映画社『殺人容疑者』(1952年、鈴木英夫・船橋比呂志監督)、大映『誘拐魔』(1955年、水野洽監督)の脚本を執筆。後者はスター・システムの大映では北原義郎が主演で、完成した映画を見た長谷川は落胆するが、『殺人容疑者』とともにそれが東映のプロデューサー斎藤安代(やすのり)の目にとまった。
斎藤安代――1927年9月14日、静岡県生まれ。1949年東京大学法学部を卒業。1952年、設立1年後の東映に入社し、企画部に配属される。藤本プロが東映で製作した『サラリーマン 目白三平』(1955年、千葉泰樹監督)、『続サラリーマン 目白三平』(1955年、千葉泰樹監督)で、企画者(プロデューサー)として参加し、藤本眞澄の知己を得る。その流れで藤本プロ同人の長谷川公之とも面識を持つ。
東映企画部で全プロ二本立て上映のため、併映になる作品の企画を探していた斎藤は、『終電車の死美人』を見て、これはシリーズになると直感する。そして長谷川公之に声をかける。これがわが国で最初のリアルな犯罪捜査映画シリーズ『警視庁物語』の始まりである。
*「鈴木英夫〈その7〉 インタビュー:長谷川公之(脚本家)」参照