スタッフ&キャスト
浅間虹児は、前述の『月曜日の男』のほか、TBS『七人の刑事』、CX『三匹の侍』(1966~1967年)、ABC『悪一代』(1969年)、ABC『白頭巾参上』(1969~1970年)、NTV『白獅子仮面』(1973年)、NET『破れ傘刀舟 悪人狩り』(1974~1977年)、ABC『必殺仕置人』(1973年)などで健筆を振った脚本家。彼にはもうひとつの顔があって、草創期のテレビ業界でフリーで働く人のご多分に漏れず、草創期のピンク映画にも関わりを持っていたらしく、ピンク映画第1号といわれる『肉体の市場』(1962年、小林悟監督)の脚本を書いている。映画ではほかにプロボクサー藤猛の半生を自作自演で描いた『藤猛物語 ヤマト魂』(1968年、関川秀雄監督)などの脚本にも名がある。
今野によると、浅間は今野の『月曜日の男』を国映に見せて、「この男は映画が撮れる」と売り込んだのだという。ピンク映画を作るというが国映側の注文だが、内容は自由でいいという(出典①)。予算は前記したように500万円。この金額は当時のピンク映画の予算からすると倍程度ではないだろうか。撮影期間は2週間。だが、当時のテレビ局は、外部業務を認めていなかったため、「グループ創造」という匿名の集団名で監督することになった。
浅間から話を聞いた今野は、浅間と相談して「漁村から新宿の繁華街にでてきた少女とそこで出会った少年の恋物語。都会と土俗がテーマ」の映画を作ろうということになった(出典①)。タイトルは『裸虫』。裸虫とは、「羽や毛のない虫。また、特に、人間のこと」(goo辞書)を意味する。今野と浅間はこの言葉に「飛べない虫」という意味をこめた。当時のプレスシートの惹句には「底辺にうごめく二匹の裸虫! 焦燥感と反抗の十代が綾なすおゝらかな性の神話!」とある。
企画に名のある菜穂俊一とは、ナオプロダクションやワールド映画製作のピンク映画のプロデューサーを務めた人物で、のちに山下治の名で約30本のピンク映画を監督する人物である。現在見ることのできる作品は、俳優として出演した若松孝二の『日本暴行暗黒史・暴虐魔』(1965年)で小平義雄をモデルにした連続暴行魔を演じているほか、監督作としては『新・情事の履歴書』(1967年)がとくに有名。撮影の秋山海蔵は、テレビ番組の撮影を担当するかたわら、『激しい女たち』(1963年、若松孝二監督)、『悪のもだえ』(1963年、若松孝二監督)、『独立グラマー部隊』(1964年、小川欽也監督)などのピンク映画の撮影も手掛けている。
劇中に、歌舞伎町のコマ劇場前の広場が映り、新宿オデヲン『鮫』(1964年6月27日封切、田坂具隆監督)、新宿ミラノ座『ゼロの世代』(1964年7月4日封切、パオロ・カヴァラ監督)の看板がチラッと見えることから、撮影時期は1964年の7月初旬から中旬であることが分かる。今野のTBSの夏休みを利用して製作されたものだという。1964年といえば東京オリンピックの年であるが、別の場面では背景に突貫工事で建設中の代々木体育館が映り、杭打ちをする工事の音が聞こえるなど、今見るとかなり同時代のアクチュアリティが背景に見えるが、これはとくに意識しなかったという。
「地方からの出稼ぎ、という社会背景のために工事現場を探したら近場に(建設中の)代々木体育館があった、という感じです」(出典②)
主演の朝倉宏二、大須賀美春は、今野が演出した『七人の刑事』にチョイ役で出演しているのを今野自身が抜擢した。なお、後年『㊙湯の町 夜のひとで』(1970年、渡辺護監督)で主演を演じるなど、ピンク映画の名脇役として活躍する大月麗子も、古賀京子の芸名でチョイ役で出演している。彼女はこの作品がデビュー作である。
冒頭と結末部に登場する海岸は千葉県白浜海岸でロケされた。夜間の雨降らしもあるし、ピンク映画にしてはなかなか贅沢な作りをしていることが分かる。
よくピンク映画は低予算だが裸さえ出しておけば、比較的自由に映画が作れるといわれるが、そのあたりはスポンサーや視聴率に縛られるテレビと比較してどうだったのだろうか。
「テレビドラマの演出はまだ3本(未放映のもの5本)の状態でしたから、比較しようもないくらいでした。スポンサーや視聴者の話は、(草創期の)テレビでは当時はそれほど現場に届いていませんでした」(出典②)。
またキャメラポジションやアングルを含む演出全般について、当時のテレビ演出との比較に関しては、
「テレビ演出というものがどういうものか全く知らない時期でしたから、(それらは)私の生理的選択だったのでしょう」(出典②)
付け加えておくが、今野勉といえばテレビ史に名を残す名ディレクター&プロデューサーであるが、古い時代のテレビ作品は現存しておらず、皮肉にも本作、つまりピンク映画『裸虫』が今野の現存する最古の作品ということになる。