コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 近藤明男が語る三隅研次・増村保造のことほか   Text by 木全公彦
フーテンが見たい
――三隅さんはホンの直しはされるんですか。

近藤直しはかなりやりました。当日、記録を呼んでセリフを直していた。

――削るんですか、足すんですか。

近藤言い回しを直す、言い方を変える、削る、足す、全部ですね。極端にいえば「セイさん」と呼ぶところを「セイ」にしてみたり、そうちょっとしたところも直していた。

――コンテはどうですか。

近藤画コンテは描きません。台本に線を引くだけです。増村さんと同じ。大映で画コンテを描く人はほとんどいません。市川崑さんが『ビルマの竪琴』(85年)で一部描きましたけど、全部じゃない。

――夜は何時ぐらいまで?

近藤僕は学生だったんで11時の終電車で帰らせてもらった。徹夜も2回か3回はあったんじゃないですか。三隅さんは新宿の厚生年金会館のほうに泊っていたから京王ハイヤーで帰ったし、スタッフも社宅とか近所でしたし。

――近藤さんが「映画芸術」の藤井浩明さん追悼で書かれていたんですが、三隅さんがフーテンを見たいとおっしゃって近藤さんが案内したと。

風月堂
近藤あれはオフの日か撮影が早く終わった日か。三隅さんと新宿に出て、風月堂とかフーテンが集まる喫茶店に連れていって。三隅さんは酒を飲まず、コーヒーばかりですから。

――それは近藤さんが学生で若者の風俗に詳しいから、連れてってほしいということで頼まれたんですか。

近藤そうだと思います。京都から来て東京の最先端の風俗が見たいと思ったんじゃないですか。

――なにか感想みたいなことは?

近藤いや、それはなかった。今の若者は、ということを話すわけでもない。ただコーヒーを飲んでそういう風俗を見ているだけ。

――でも意外なエピソードです。

近藤そうですね。井上昭さんなら分かるんですけど。ただコーヒーが飲みたかっただけかもしれない。

――ポスプロは監督が立ち会うんですか。

近藤あの頃は封切り日が決まっていて、次から次へとどんどん撮っていたから、そういうポスプロという言葉すらなかった。撮影しながらどんどん編集していって、全部撮り終わりクランクアップしたら、ダビングして、監督ラッシュで、すぐに初号。

――この頃はもう大映も傾きかけていたと思うんですが、撮影所の雰囲気はどうでしたか。

近藤撮影の合間に雑談していると、「もう映画の時代は終わりで、この撮影所も長くないからこんなところに来るなよ」とか「これからはテレビの時代だからテレビに行きな」とか言われました。「もうここも3年も持たないよ」というスタッフもいて、僕はそんなことはないだろうと思ってましたけど、その通りになりました。バイトの僕でも年々作品にかける美術費が削られて貧弱になっていくのは分かりました。でもまあこの頃はまだ直接スタッフの士気に影響が出るようなことはなかった。