芸研プロから東京プロへ
1947年、星野は自らが主宰する日本芸能社が労働基準法に抵触する疑いが持たれると、これを解散。1948年には東宝が争議で製作力が低下した間隙を縫って芸術研究所(芸研プロ)を、熊谷久虎を名目上の社長として設立し、自らは専務に収まった。取締役は、森永健次郎、岩井金男、沢村勉、佐分利信という顔ぶれである(社外取締役に倉田文人)。第1回作品は前出の『殿様ホテル』(49年)。これに原節子が出演している。撮影は原の実兄の会田吉男。
その後、芸研プロは太泉スタジオと提携して、星野と盟友(その上自宅も近所)である佐分利信監督作品の2作品『女性対男性』(50年)、『執行猶予』(50年)のほか『アルプス物語 野性』(50年、沢村勉監督)の3本の作品を製作(3本とも現存せず)。佐分利の2作品は高評価を得る。佐分利とはその後も深い交流を続ける。芸研プロのそのほかの作品に『地獄の笛』(49年、倉田文人・森永健次郎監督)、『青空天使』(50年、斎藤寅次郎監督)、『浪人街』(50年、佐伯幸三監督)などがある。そして太泉スタジオの経営が傾くと、1951年芸研プロを解散する(55年以降の芸研プロは第2期とされる)。
続いて、星野は松竹の製作本部嘱託に収まり、同時に1950年7月に焼失した松竹下加茂撮影所が、1951年10月に主にレンタルスタジオを業務とする松竹傍流の京都映画に売却されると、その常務取締役にも就任した。東京と京都を特急の一等席で往復する多忙な毎日である。
翌1952年2月には資本金100万円で東京プロダクション(東京プロ)を設立。社長の星野を筆頭に、佐分利信を取締役、元大船撮影所所長(のち松竹社長、当時は武蔵野映劇の会長)の大谷博を相談役に据えた。
松竹専属の第一線級のスタアがフリーになり、星野の傘下に入ったとき、離散したスターを松竹に縛りつけるために、スタアのマネジメントを牛耳っている星野を松竹の製作本部嘱託に据えることを考えたのは、ほかならぬ松竹の創業者である大谷竹次郎(当時松竹社長)であったという(「週刊サンケイ」1953年8月23日号、「天才的俳優ブローカー」)。大谷竹次郎の娘婿である大谷博が東京プロの相談役になっているのはその流れであろうが、それだけでは説明できない複雑な関係が錯綜しているので、よく分からない点が多い。
ともあれ戦後すぐには東宝をバックに資金を融通し、東宝争議が起こるとライバルであった松竹の禄を食むとは、星野和平がしたたかなのか、それとも映画界が魑魅魍魎のうごめく伏魔殿なのか。ただし、松竹の思惑に反して、自社には傘下のスタアを安く使えるという目論見はすぐに崩れ、スタアのギャラは星野の辣腕でどんどん上がる一方だった。大谷竹次郎はほぞを噛んだ。もはや星野の勢いは誰にも止められない。
東京プロの第1回製作作品は、新東宝と提携した『離婚』(52年、マキノ雅弘監督)である。星野とマキノとの関係は、すでに書いたようにマキノ・トーキー時代からのつながりだろう。そういえば、マキノ雅弘も戦後の一時期自らのプロダクション、C・A・C(シネマ・アーティスト・サークル)でスタアのマネジメントをしていたこともあった。所属スタアは轟夕起子、月丘夢路、月丘千秋、服部富子、田端義雄ら。
続く東京プロと新東宝との提携第2作が佐分利信監督・出演の『慟哭』(52年)。1952年度キネマ旬報ベストテン10位。日本映画全盛時代に俳優の手習いではなく本格派として、溝口健二や黒澤明ら巨匠の作品を抑えてキネマ旬報のベストテンに続々とランクインしていた佐分利信監督作で、最後のランクイン作品である。脚本は佐分利とのコンビを組む猪俣勝人。猪俣は回想する。「私の作品でその年間のベストテンに入ったものは、ことごとく彼(星野和平、引用者注)のプロデュースによるものであった。そして私の取った最高の脚本料は彼に取って貰ったものである」(猪俣勝人・田山力哉著「日本映画作家全史(下)」、社会思想社、1978年)。事実、佐分利・猪俣のコンビ作にはいつも星野が関与し、ことごとく高い評価を受けた。
『慟哭』については、監督・佐分利の美質がよく出た作品だと思うが、佐分利信監督作品については、以下を参照にされたい。
講演「佐分利信を再見する――第3回 アナクロニズムの会」(2009年10月10日)
そして東京プロは第3作として新生プロとの提携で、『弥太郎笠 前後篇』(52年、マキノ雅弘監督)を製作すると発表された……。
【以下続く】