呉服商から身を興す
星野和平は、1913年11月19日栃木県今市の材木商の三男として生まれた。学歴は栃木県下の日光に近い尋常小学校だけ。学歴がないことから、のちにほとんど脚本を読んで検討するということをしないために「星野は読み書きができない」と揶揄する者もいたが、それはないだろう。このときの図画工作の先生として星野少年を教えていたのが、臨時教員時代の横尾泥海男(横尾は芸大出身)である。
小学校を卒業して上京。呉服商に勤め、日本橋白木屋(のちの東急日本橋店)の呉服部員に転じ、ここで外商係として手腕を発揮した。この仕事で芸能人とつながりを持つ。やがて独立し、自前で呉服の行商をするようになる。彼が扱うのは結城、黄八丈などの高級品で、お得意先も映画人やスタアといった人たちばかり。星野が扱う高級反物は虚栄心の強い映画人の購買意欲をそそったが、外側のきらびやかさと違って内実はそう裕福ではない映画人のために月賦販売をし、そのうち現金の貸し付けも行うようになる。早い話が金貸しである。
この頃、当時日活多摩川撮影所にいたマキノ満男と反物の得意客である夫人を通じて懇意になる。「キネマ旬報1952年10月下旬号所収「映画企業の盲点を衝く 星野和平氏との一問一答」」によると、マキノの伝手でマキノ・トーキーに入り、助監督見習いや小道具係など雑用係をやったという自身による談話があるが、それは行商時代のあとの話だろうか。
ともあれ、星野は4万円ほどの貯金を作ると、1942年星野興行社(のち日本芸能社)を設立し、杉狂児一座をひきつれて巡業を行なうようになる。この時期にスカウトしたスタア第1号が山路ふみ子である。またマキノ正博の末弟のマキノ真三の夫人である宮城千賀子と劇団なでしこを結成し、宮城の当たり役『歌ふ狸御殿』を舞台化し、巡業を行なうと、この興行を独占し、当時の金額で200万円を稼ぎ出す。同時に召集令の来ないうちに陸軍被服廠に自ら出向いて軍の嘱託を志願し、慰問演芸専門の軍属として、嵐寛壽郎、江川宇礼雄、加賀邦男、宮城千賀子、黒田記代らを引き連れ、全国巡業を行なう。敗戦時、星野は軍属大佐の地位だった。
すでに書いたように、星野がこれほどの多くのスタアを惹きつけたのは、彼が軍属であったこともさることながら、父親が新宿花園町(新宿一丁目)に開いた質屋を継いでいたこともある。食糧や物資の調達で物資難に悩むスタアを籠絡させたというわけだ。
戦後になると、ますます物資不足は深刻になった。星野が声をかけずともスタアのほうから彼にすり寄ってきた。星野のほうでも一軒一軒スタアへ食糧品や入手しにくい甘味物などを配って歩く。星野はこれを“特配(特別配給)”と呼んだ。撮影所が荒廃した映画界がまだ生産能力の乏しい時代には、「高峰三枝子とその楽団」「嵐寛壽郎劇団」などを組織して全国を巡演する。
さらに経済観念の乏しいスタアに代わって、契約を代行し、ギャラ交渉もやってのけ、出演料のつり上げをした。折から専属制度は崩れていて、キャスティングに苦労していた映画各社は、足元を見られ、星野の要求に屈するしかなかった。星野のマネジメント料は俳優の取り分の5%から10%だったという(前出「キネマ旬報」)。今の芸能プロなら源泉を含め、30%は天引きされるはずだから、かなり格安でマネジメントしていたことになる。実演ではワンステージ3000円で最低でも1日2回。ざっと年収50万円。男女優通じて、この頃の最高値にある長谷川一夫の映画でのギャラが年4本契約で30万円、実演が1日2000円という時代である。ギャラも破格である(前出「週刊新潮」)。
前述の星野が抱えていたスタアに松竹所属が多い理由は、松竹がスタアの宝庫だったからで、ほかに地方巡演のバックアップをしたのが東宝の芸能部であったことから、スタアの集合費として4000万円の軍資金を渡され、スカウトに使うとそのぶん同額の補填があったという。