コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 林土太郎が語る三隅研次のことほか   Text by 木全公彦
引き抜き
――三隅さんは森さんと違って残業が多かったそうですね。残業代はつくんですか。

社員はつく。契約者はつかない。昭和23年、みんな契約者になりましたけど、私だけはならへんかった。というのは今までこきつかわれて、しょっちゅう体をこわしていたのに、契約になって保障がなくて病気になったらパーでしょう。だから私は給料取りでいいと。そりゃ契約者のほうが収入はいいですよ。

――大映は組合が強いんですか。

割合強かったね。

――強かったからああいうことになったんでしょうけど。

組合があったから病気しても安心できたんですわ。

――昭和33、34年は林さんはフル回転ですもんね。1年に10本ぐらいやっている。

私は三隅と一緒で日活に入社して会社統合で大映になって、兵隊にとられて、戻ってきてからまたずっと働きづめですわ。新人時代も自分で勉強する時間がほとんどなかった。すぐに実践ですから働きながら苦労して仕事を覚えていったわけですね。

――東映ができたときに引き抜きがあったそうですが。

それは事実です。三隅にも話がきたと思いますわ。大映はとくに技術パートがよかったから、引き抜こうと思ったんじゃないですか。日活ができたときもそういう話がありました。そやけど、「そんなとこ行ったらアカンぞ」と言われて、会社の信頼度も大映のほうが全然上やし、新しくところで働こうとは思わなかった。

――でも給料はよくなるんでしょう。

会社が好きやったということですかね。長いことお世話になっておるし。

橋本文雄
――大映からほかに会社に引き抜かれた録音の人というと?

橋本(文雄)がそう。あと神保(小四郎)とか。

――橋本さんは日活に移籍されてからも大活躍で。

そうやね。私は小僧の頃から日活に入社して、大映でずっとやって、大映がつぶれて、自分とこで仕事場作ってやってきましたけど、しんどいこともありましたけど、やっぱり大映でやってこられてよかったなと思います。

――ありがとうございました。

2006年5月16日 太秦にて
取材・構成:木全公彦