コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 三國連太郎の企画   Text by 木全公彦
■ 佐藤純彌の登板、そして……
次にこの企画が浮上するのは、その年の秋である。監督は大島渚から、その年に『陸軍残虐物語』(1963年)で監督デビューした佐藤純彌に交代していた。佐藤の『陸軍残虐物語』、続く『続・王将』(1963年)も主演は三國連太郎。この『脱獄』と仮題がつけられた映画は、このコンビの第3作として企画が進められた。脚本は『陸軍残虐物語』を執筆した棚田吾郎が担当することになり、北海道の雪の中での撮影を考慮して12月20日頃にはクランクインする予定だと発表された。共演は『陸軍残虐物語』に引き続き、中村嘉葎雄、西村晃という面々。

「簡単にいえば、脱獄の名人が脱獄する話だが、入獄の理由、方法、その間の人間の葛藤が描かれる。日本のある小さな漁村に、終戦でカラフトから引き揚げてきて、漁師をしていた男が、沿岸漁業の発達の波に押し流されて罪を犯し、入獄するというあらすじで、脱獄の理由を、入獄前に行ったことを完成させるためか、あるいは他に理由をつけるかは検討中だという。入獄の理由については、本人は罪を意識せず、一つの現実を突き破ろうとした行為が、客観的に罪と見られるという方向へ持っていくことになりそう。佐藤監督は『陸軍~』では十分出せなかったことを“ある機構とか現実の中で人間がいかに変えられるか”をもう一度描いてみたい」(「日刊スポーツ」1963年11月18日付)と語った。

だがこの『脱獄』の企画も棚上げになってしまう。一説には岡田茂が東映のギャングものの延長にあるこの企画に、暗く、重いイメージが強い三國連太郎をふさわしくないと考えたからだととも言われている。

しかしこの企画は思わぬ形で再生し、東映の屋台骨を支える名物シリーズとなっていく。『網走番外地』シリーズである。主演に三國の可能性がなくなった以上、もともと企画が三國であったから、そのままの形で使えない。そこで目をつけたのが伊藤一の小説「網走番外地」だった。すでに日活で松尾昭典が小高雄二、浅丘ルリ子主演で同名題名の映画を封切っていたが、今度の東映版では三國が持ちこんだ企画にあてはまるプロットを自在にふくらませただけで、伊藤一の小説からは題名を拝借しただけだった。

監督は石井輝男。当初の企画がギャングものの延長である以上、東映東京撮影所にギャングものいうドル箱を打ちたてた石井輝男に白羽の矢が立つのは当然であった。石井は、かねてより温めていたスタンリー・クレイマー監督の『手錠のままの脱獄』(1958年)を巧みに換骨奪胎して、脚本を書き、主演には高倉健が起用された。相手役には石井の古巣新東宝の仲間であり、その後もずっと強い信頼関係にあった丹波哲郎が決まった。封切りは1965年4月18日。思わぬヒットで、シリーズ化が決定する。だがクレジットには三國連太郎の名前はない。自らが興した独立プロで自身が監督した『台風』の配給を東映に拒否され、それでも契約関係にあった東映作品に出演していた三國は、主力映画が任侠映画路線へと傾斜していく東映には、自分の出番はないと思い、その翌年には東映との契約関係を解消し、完全にフリーとなるのであった。