■ 三國連太郎の企画
三國連太郎が網走刑務所から囚人が脱獄しようとした計画があったことを知ったのは、1962年か1963年の早い時期だったようだ。この時点で三國はまだ独立プロを興して自らの監督で映画を作ろうという気はないが、自分の企画でなんとか東映の路線に乗るような作品をやろうと積極的だった。そこでこの網走刑務所の囚人脱走計画の事件をモデルに、自らが企画者となって岡田茂東映東京撮影所に『網走監獄の脱走』という企画を提出する。大島といえば前作『天草四郎時貞』で記録的な惨敗を喫した札付き監督で、東映上層部からは反対意見が続出した。
三國は、現在東映でヒットしているギャングものの延長上にある娯楽アクション映画であることを強調し、「監獄の中を現実社会の底辺と考え、そこから脱出しようというテーマで人間性をつきつめて描いたギャングものにしたい。それには大島監督が最適」(「日刊スポーツ」1963年3月1日付)と説得し、結局三國が責任をもってプロデューサーも引き受けるということで、企画は了承となった。企画の窓口は俊藤浩滋。脚本は大島渚と石堂淑朗。主演は三國と俊藤がマネージメントしていたアイ・ジョージである。
同新聞の各氏のコメントから引用する。
「(三國連太郎の話)脱獄の資料を集めているうちに大島監督でとったらきっと異色の“ギャングもの”になると思った。実現するよう岡田所長にお願いしておいたが……アリフレックス一台をかついで、北海道で実景をとりたい」
「(大島渚監督の話)まだ東映からの話は聞いていません。日生劇場の『小さな冒険旅行』で、子供を使う自信もついたし、秋に創造社の自主製作で『浮浪児の栄光』をやることを決めているが、もし、企業から演出の話があれば喜んでやってみたい」
「(岡田茂東京撮影所長の話)三國君の企画は四、五日前俊藤プロデューサーを通じて聞いた。話としてもおもしろいし、十分使えると思う。三國君の話ではアイ・ジョージ君も五月にウチで一本とることになっているし、どうせ出るならいい作品に……ということだし、話が大島監督にピッタリなのでぜひ……とも頼まれている。脚本も石堂君でどうかといわれているが、細かいことはこれから検討することにしている。もしやることになれば、このへんで大島監督に一発ホームランを打たせてやれるようなものにしたい」
だが東映は『天草四郎時貞』を興行的に惨敗させた大島渚への不信感が強く、この企画を監督させることはなかった。