コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 座頭市・その魅力【その1】   Text by 木全公彦
座頭市の誕生
『座頭市物語』(62年、三隅研次監督)の原作は、子母沢寛が「週刊読売」に1955年10月9日号から12月25日号に連載した歴史随筆集「ふところ手帖」所収の「座頭市物語」であった。子母沢が取材先の下総国で聞いた話をまとめた、原稿用紙にしてわずか十数枚ほどの短編である。それによると、実在した座頭市は、天保の頃、下総飯岡に流れてきた年配のでっぷりとした大きな男で、飯岡の助五郎に盃をもらい子分になった盲目のやくざだという。中年になってから盲目になったらしく、物の色をよく知っており、博奕が滅法強かった。腰には長い柄の長脇差を差し、「いつ抜いたか、いつ斬ったか」分からぬほどの居合抜きの名人であったが、その後はやくざを嫌い、足を洗って百姓になった、と書かれている。

この随筆の映画化を最初に提案したのは、案外知られてないが、実は、清水宏であったというのは驚いてもいいかもしれない。清水宏といえば、『風の中の子供』(37年)、『みかえりの塔』(41年)、『蜂の巣の子供たち』(48年)など、子供を主役にした名作で知られる、戦前からの日本映画を代表する巨匠監督である。その自由な作風は、溝口健二、小津安二郎、山中貞雄といった錚々たる名匠たちをして、天才と言わしめた天衣無縫な閃きと詩情に溢れたユニークものであった。その清水と「座頭市」ではあまりにも似合わないと思うのが当然。映画のイメージが強い現在から考えればまるで水と油である。

晩年の清水は、大映と契約していたが、『母のおもかげ』(59年)を最後に実作からは遠ざかり、1961年に買い求めた京都の自宅で悠悠自適の日々を送っていた。そこへ大映企画部の久保寺生郎(のち勝プロに移籍)が訪れる。久保寺は企画部所属ということもあって、以前からたびたび清水の家を訪問していたのである。久保寺によれば、そのときに清水から「座頭市物語」の映画化を薦められたのだという。清水は読書家であると同時に食通でも有名。ならば、子母沢寛の随筆「味覚極楽」の愛読者だったのは当然であった。そういえば、清水は『按摩と女』(38年)などたびたび自作に按摩を登場させる按摩好きでもある。

久保寺から話を聞いた企画課長の奥田久司は、上司の企画部長である鈴木晰也にその話を伝えた。当然、鈴木の脳裏には、勝新太郎のイメージチェンジになったヒット作『不知火検校』が浮かんだのだろう。「座頭市物語」を勝新太郎主演で映画化するという案に自信を深めた。鈴木は企画に難色を示す永田雅一を説得すると、早速映画化に向けての準備に取りかかる。

そして子母沢と交流があり、『不知火検校』の脚本家であった犬塚稔に「座頭市物語」の脚色を打診し、了承を取り付ける。犬塚の回想によると、企画部員が子母沢原作の「父子鷹」映画化の契約のため、子母沢を訪ねた際、「座頭市物語」映画化の契約も一緒にしてきたのだという。原作契約料は15万円という破格の安さであったらしい。しかし物語といえるほどのものがほとんどないので、犬塚が子母沢の原作の設定だけを生かし、脚本を書き上げた。したがって座頭市の生みの親は事実上犬塚稔であるといっても過言ではない。犬塚によれば、脚本に取りかかっているときに鈴木晰也が製作部長に昇進したので、東京撮影所から土井逸雄が後任の企画部長に赴任してきて、祗園の大沢旅館で脚本を執筆中であった犬塚を訪れ、ねぎらったという。