再び吉田喜重について~『女たちの遠い夏』〈その1〉
ところで、前回のコラムで書いた
「ある日米合作映画の企画」のすぐあとに書くはずであったこの続篇について、掲載するタイミングを測りかねていたのは、これがなにも誰にせかされるわけではない締め切り無用の原稿であるばかりでなく、ぼやぼやしていたら、福島の原発事故が起こり、ネタとしてキツいんじゃないかと思ったからだといえば、それもあるけれども、マーク・ロマネク監督による映画『わたしを離さないで』(10)の公開にあわせて、原作者のカズオ・イシグロが来日するから、なにかトーク番組にでも出演するのかと思ったからでもある。そしてようやく先日、震災報道で放送が延期されたNHK「ETV特集」のカズオ・イシグロを取り上げた回が放送され、やっと見ることができた。
女優のともさかりえや分子生物学者の福岡伸一が進行役を務めるというのも意外だったが、蜷川幸雄はともかく三木聡までもがカズオ・イシグロに魅了されているということに驚いた。それとともに、吉田喜重が映画化寸前までいって、製作中止になった映画について、この番組が何の言及もしていないことに憤然としたのであった。演劇人としての蜷川にはかつてほど魅力を感じないし、三木聡とやらが吉田喜重を差し置いて、この番組に登場し、カズオ・イシグロについて話をするのは百年早いと思うが、吉田喜重がカズオ・イシグロの作品を映画化しようとして果たせなかった話はそれほど知られていないことなのだろうか。
それこそが『さらば夏の光』と『鏡の女たち』をつなぐもうひとつの作品であり、結果として『鏡の女たち』へと姿を変えた作品でもある。それは、1996年、吉田喜重がオペラ『マダム・バタフライ』に次いで、取り掛かった企画で、吉田の映画作品としては実現していれば、『嵐が丘』(88)以来、8年ぶりの映画で、岡田茉莉子とのコンビ作という意味においては『告白的女優論』(71)以来のものになるはずであった。
作品は、カズオ・イシグロが1982年に発表した処女作「遠い山なみの光」(A Pale View of Hills)の映画化である。日本で最初に紹介されたときは「女たちの遠い夏」(ちくま文庫)という題で、のち同じ訳者・小野寺健による改題改訂版「遠い山なみの光」(早川書房)となった。実は改題された早川書房版を読み、同じ作品とは知らずにちくま文庫版を古書店で買ってしまったのだが、翻訳の直しはほとんど分からないぐらいのごく小さなものだったように思う。吉田による映画版の題名は「女たちの遠い夏」。日本・フランス・イギリスの合作で、日本側の製作は日活が担当することになった。
作品の底に流れるものは、長崎、原爆、記憶という三大テーマで、現在のイギリスと回想の中のナガサキが交錯する、まさに「ナガサキ、モナムール」とも呼べるものであった。