映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦   第57回 2013年、熱波の夏を振り返る
まず前回の訂正、そして或る「ジャズ映画」イヴェントの報告から

前回のコラムを読んだオラシオさんから、本文中に一部問題ありとの指摘を受けたので、今回はその件からスタートする。とりあえず頂戴したメールをそのまま引用。

実はバレエ・エチューズには2種類あります。
1.演劇伴奏音楽としてのそれ。
ナミスウォフスキ、テリン、ヴァンダ・ヴァルスカが参加。
2.デンマークMetronome盤超レアカタログ。
ヤン・プタシン・ヴルブレフスキ、ボッチンスキー参加。
コラム中で、その記述を混同していらっしゃいます。

とのこと。ホームページ「オラシオ主催万国音楽博覧会」の方でも既にこのイヴェントで紹介された楽曲のタイトルはアップされたので、そちらもご覧下さい。文脈から考えると入手きわめて困難なアルバムというのは2の方なのだろう。ちなみに「バレエ・エチューズ」というのはクシシュトフ・コメダ作曲による伴奏音楽アルバム。

「ジャズ批評」2013年7月号
このオラシオさんの音楽イヴェントと相前後して8月5日、ザムザ阿佐ヶ谷(ラピュタ阿佐ヶ谷の地下スペース)では「日本映画とジャズ」と題された特別上映&トークショーが開催された。これは雑誌ジャズ批評(オラシオさんのホームグラウンドでもある)2013年7月号同タイトル特集の刊行を記念した催しである。パート1「瀬川昌久のザッツ・エンターテインメント!昭和20~30年代のジャズ映画の心躍る名場面を一挙紹介!」、パート2「伝説のジャズシンガー、安田南の歌っている映像が見られる幻のドキュメンタリーの特別上映」の二部構成。
とても有意義なイヴェントで映画のタイトルとナンバー、それに出演者のパーソネル等を詳細に紹介するだけでも価値はある。のだが、ひょっとしたら部外者が勝手に映画の名前とか挙げるとまずかったりするかも知れないので、残念だが止めておく。そもそも既に出ている次の号のジャズ批評でも「ちゃんとした」レポートは掲載されていないから、私が余計なことを書くことではなさそうだ。日本映画のジャズに関して、このところ本コラムでは八木正生が「映画音楽家として」活躍した時代をメインにして語ってきた。しかし日本におけるジャズ映画の歴史というのはもっとずっと以前からあるわけで、今回のトークショーは色々と教えられるところが多かった。その成果はいずれ本連載でも反映されることだろう。
ところでそのザムザの上の部分、つまりラピュタの一階の待ち合わせ室のちょっとした展示スペースにこのところずっと、戦前ジャズ映画の一本『鋪道の囁き』のDVDジャケが飾ってあるんだよねえ、せっかくの機会なのでここでちょっとだけこの作品について触れておく。手元にチラシがあるのでさっそくそこからコラムを引用することにしよう。「『鋪道の囁き』の魅力と見どころ」、執筆しているのは瀬川昌久氏。

戦前モダン昭和に制作された本格的ダンス映画『鋪道の囁き』は、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャース映画のダンスと音楽を日本で再現した加賀プロダクションの野心作でした。アメリカ帰りのハンサムボーイであるタップダンサー中川三郎と、本場のジャズソングとダンスを披露する魅力の日系二世ベティ稲田の共演にも注目が集まりました。昭和11年5月の封切りを待つばかりでしたが、突然のお蔵入り。そして『鋪道の囁き』は公開されることなく幻と消えました。しかし、長い年月を経てアメリカにてこの映画のフィルムが発見され、日本へと戻ってきたのです。(略)戦前、昭和9年に撮影されたこの映画は当時の銀座の街並み、そしてミルクホールが映っています。音楽監督服部良一のアレンジによるジャズのバンド演奏、そしてダンサーの踊りは必見です。

本作は引用文からも分かるように「アステア・ロジャース映画」に直接の影響を受けた、その同時代作品ということになる。ジャケによれば「制作:加賀四郎。監督・主演:鈴木伝明。オールトーキー・モノクロ84分(1934年制作)」。未公開とは言いながら、戦後すぐに『思い出の東京』のタイトルで公開されたことがあるというのだが、そのへんのことは私ではお手上げ。フィルムセンターに寄贈されたこの作品は96年に上映が実現している。当時ご存命だった中川さんも上映会に立ち会われたとのこと。
もちろん日本ジャズ・ミュージカル映画の先駆けと言いたいところだが、よく知られるとおり戦前の思想統制と太平洋戦争によるアメリカ文化の「御禁制」化でその後日本のジャズ及びジャズ映画は共に大きな断絶の時代を経過することになり、戦前のこうした画期的な企画も継承されずに途絶えてしまう。お蔵入りは当時の映画業界の画策した加賀プロ潰し、だったようだ。従って「先駆け」と言うより「孤立した」試みというのが正しいように思える。ちなみに加賀四郎というのは女優加賀まりこの父である。

日本にもう一組の「アステア&ロジャース」が生まれなかったからと言って必要以上に悔やむこともないのだろうが、もう少し事態を広く取れば、この戦争による断絶は日本における本格的なエンターテインメント映画の発展を大きく阻害したとはっきり言える。残念なのはそうした点である。ただし後述するようにこれに並走する同時代的試みというのも無いわけではない。『鋪道の囁き』のたどった数奇な運命について、また戦前の日本ジャズの生き証人たる瀬川昌久とその著書の一つ「ジャズで踊って」(清流出版刊)については、とりあえず清流出版のホームページ内の連載「高崎俊夫の映画アットランダム」の当該部分を読んでおいてください。

ラピュタ阿佐ヶ谷ではこの夏「結婚映画特集」の一本として、知られざるミュージカル映画の傑作『踊る摩天楼』(監督:野村芳太郎、56)を上映した。主演女優陣の一人に中川弘子さんがいて、彼女はザムザのイヴェントにもゲストとして登場。瀬川氏と司会高崎俊夫氏を相手に自身の映画歴や共演した美空ひばり等の想い出を語ってくださった。実はこの映画の見どころの一つが弘子さんの当時所属したグループ「中川トゥルーパーズ」の舞台シーンであった。この名前が正式だと思われるが画面上のクレジットでは「中川音楽一家」となっており、この方がコンセプトは分かりやすい。『鋪道の囁き』の「アステア」中川三郎が彼の四人の子供たちと結成したグループなのである。再現されたフロア・シーンで彼らの自ら演奏するアコーデオン、ピアノ、木琴、ドラムのジャズとタップダンスが存分に味わえる。
物語上、弘子さん演じるキャラクターは女性三人から成るソング&ダンス・チームの一員なのだが、こうしたヴァラエティ・シチュエーションのお約束で、ここで彼女はそうしたドラマ上の設定と関係なく振る舞うので、ぼおっと見ていると同じ人だと分からないほどだ。妹の姿子(しなこ)さん、元子(ゆきこ)さんと共に女優として、またもちろんダンサーとしても活躍された。