僕たちはセロニアス・モンクが好きだった
山下洋輔の著書「ピアノ弾き乱入列車」(徳間書店刊)は山下が様々な機会に(多くの場合相手から呼ばれて)行ってきた対談を一冊にしたもの。そこに八木と山下の対談「ぼくたちはT・モンクが好きだった」が収められている。これも対談相手即ち八木主導によるものである。八木がモンクについて語り合うのに山下を呼ぶということは、八木にとってこの二人のピアニストがどこか共通点を持っていると感じられたからだ。一言でいえば「でたらめ」なところ。等と書いてしまうと山下にもモンクにも失礼だし、何より八木に失礼だから、一言で終わらせずこの対談の内容をじっくり紹介してみよう。二人が互いを照射するように自分の音楽の成り立ちを語っており、そこにモンクがどう影響を与えたのかがよく分かる。
山下はあとがきで八木をこう記している。「子供の頃憧れていた八木さんは、瘦身の鋭い感じを漂わせたピアニストだった。(略)あくまで、学究肌であり真面目に音楽を追求していくという印象が強かったのだ。その根拠を今思い出した。弾く姿だけでなく書いたものを読んだ記憶が強烈なのだ。それはジャズの和音構造の解説で、なぜGセブンとDフラットセブンが相互に代理コードになり得るかという話だった。」音楽的な部分は私では分からないので読者各自にこの件は委ねるとして、山下にとって八木は音楽的な先輩というか大げさに言えばメンター(指導者)の一人なのだということ、これが重要。直接に教えを乞うたわけではないのだが、こうした影響関係はあり得る。八木にとってのモンクもそうだ。もっとも、山下世代にとってモンクがそうかというと、それは微妙な問題をはらんでいる。これまた大ざっぱな書き方になるが「モンク・ショック」というのは多分八木の世代の世代的事件であって、山下の世代一般にはもはやそれはない。モンク的なイディオム(演奏法、構造のみならずさらには広く音楽的雰囲気等を指す)はジャズの世界の共通語とは言わないまでもワン・アンド・オンリーなものとしてちゃんと受け入れられるようになっていた。「(山下)ぼくはモンクというのはあんまり縁がないような気もするし、実に何か縁があるような気もしてるんですね。」「(八木)ぼくもそんな気がしたので今日来て貰ったんだけれど。」「(山下)変なピアノということでは好きなんですが、ちゃんと勉強したことはないんです。」
一応確認しておくと八木が「バグス・グルーヴ」でひっくり返った時と山下がモンクを初めて聴いた時と、時間的には五年と違わないはずだ。五十年代後半の五年間にすっぽりと納まる出来事だろう。ただしそれを体験した年齢なり環境なりが出来ごとに大きく作用するとは言える。山下にとっても初めて聴いたモンクは、それまでに学習してきたジャズとは異なるものとしてあって、そういう点では八木によるモンク受容と重なるところがある。世代的なものと個人的な感覚はいくらでも食い違うわけで、これもまた重要なファクターだ。
前回も取り上げた「ジャズ批評ブックス 定本セロニアス・モンク」(松坂刊)には山下のモンク体験についてのインタビューが載っていて、この間の事情を上手く総括している。引用する。
僕は正当なハンプトン・ホーズをやってたんですが、モンクにも引かれました。でもモンクを真似していたら、まっとうなピアニストにはなれないと考えるのは本能的に正しいわけで(笑)(略)。普通のことができないからモンクをやる、という風な存在でしたね。そのままモンクばかりを真似してしまうのは絶対危険なんだということは分かっていました。八木正生さんのモンクというのは、ビバップをやって自分ができてからのモンク研究ですから立派なものです。
八木×山下対談に戻ると、「(山下)変な音出したり、リズムが変だったりで、これは判らん、とまず思ったですが、ただ、ものすごい力を感じました。迫力みたいなもの。ぼくの初体験はそんなもので、すぐにこれはすごいって飛びつくんじゃなかったですが、強烈な感じで、これはもう違う人だという感じだったです(笑)。」一方八木は、「これ(バド・パウエルの奏法。上島注)やってりゃいいと思ってたのが、音楽やるっていうのはもう少し違うことだぞって気がしたのね。(略)あなたは前衛的とおっしゃったけど、確かに当時前衛的に聴こえたけれど、意外にモンクは前衛ではないって途中で気がついた。でもああいう響きは何故するんだろうということから、どうしてもジャズだけじゃなくて他のものにも興味を持ったんだけどね。」
武満徹が八木のソロピアノを聴いたことでジャズを再発見し、それが彼の映画音楽(ドナルド・リチーの『熱海ブルース』等)に活かされていったことと、八木自身の映画音楽への関わり、またその深まりとがシンクロしているのがこの発言から分かる。
ではモンクと他のジャズ・ジャイアンツとの関係はどうなのか。「(山下)この間、昔のビデオ見たんです。ビリー・ホリデーとレスター・ヤングとコールマン・ホーキンスとか、カウント・ベイシーも出てる。そこで最後に、いかにも最近デビューの話題の若者って感じでモンクが出て来るんです。トリオでね。(略)いかにもギラギラしたものを発散させながらやってるんですね。ただやってるんじゃないぞという。いかにも古い連中の間に入って切り込んでいってる感じがしたんです。それをレスターとかベイシーが聴いてる表情をアップで映すんですけど、彼らが実に不思議な顔をしてるんです。笑いたいんだけど笑えない(笑)。(略)実に妙な顔をして。」「(八木)ビー・バップが出来かけの頃のミントン・ハウスのセッションの録音(アルバム「ミントン・ハウスのチャーリー・クリスチャン」“After Hours Harlem”(ヴィーナス・レコーズ)のこと。上島注)聴くと、わりとまともなこと弾いてるのね。スイング・ピアノ風でね。『これモンクだ』っていわれるとびっくりするようなピアノ弾いてる。(略)わりと流暢なんですよ。モンクはテクニックがないからああいうことやり出したというのは嘘だと思うし(略)。バド・パウエルみたいに弾きたかったのかも知れないけど、バド・パウエルが出て来たので、俺はこっち、と思ったのかも知れない。」「(山下)パウエルなんかは、パーカーのやったことを素直に右手に移せた。(略)モンクはそれが出来なかったということが…。」「(八木)あるかも知れない。その頃まではみんな同じようなことをやってて、その辺りから分れていったのかも知れない。」
実は現在ではアルバム「ミントン・ハウス」のピアニストはモンクだけではないことが判明しており、従ってここでの発言にも時代的な制約というかいくらかの誤解が含まれていることになるのだが、その件はいずれモンクをテーマにする際に記すことにしよう。
モンクに関する様々な書きおろしエッセー、対談等で構成された著書「セロニアス・モンク ラウンド・アバウト・ミッドナイト」(講談社刊)に載った後藤雅洋の論考「バド・パウエルとモンク」にはこの二人のジャズ・ジャイアンツのジャイアンツたるゆえんが語られている。引用する。
ジャズ・ピアノを時代を追って聴いてみると面白いことに気が付く。スコット・ジョプリンのラグタイム・ピアノからジェームズ・P・ジョンソンのストライド・ピアノを経て、ファッツ・ウォーラー、アール・ハインズ、アート・テイタムと続くスイング・ピアノが、四〇年代のビ・バップでガラッと変わってしまうのだ。ビ・バップ・ピアノの重要人物は、いうまでもなく、モンクとパウエルである。もちろん、ウォーラー、テイタムらの奏法が、形を変えモンク、パウエルにも受け継がれているのは周知の事実だ。(略)ウォーラー、テイタムを聴き、モンク、パウエルを聴けば、単なるスタイルの違いでは説明のつかない根源的な断絶の痕跡を我々は発見する。(略)ウォーラー、テイタムから聴こえてくるのは、“ピアノの音楽”だ。一方、モンク、パウエルの演奏から聴こえてくるのは、“モンクの音楽”であり、“パウエルの演奏”なのである。(略)ウォーラー、テイタムは優れたジャズ・ピアニストであり、おのおの技巧の限りを尽くして自分の音楽を表現した。しかしその後にモンク、パウエルを聴いてしまうと、彼らスイング・エイジのピアニストはまだまだ“ピアノの規範”に従っていたんだという思いを強くする。平均律による西欧的音楽規範の頑固な体現者であるピアノを、完全に自分達黒人の身体の文脈に沿って読み直してしまったのが、モンク、パウエルなのである。(略)しかしながら、強引ともいえるやり方でおのが懐にたぐり寄せたピアノという獲物の使い方は、モンクとパウエルでは当然のように違っていた。そしてこの相違が、バップ・ピアノ草創期から今日に至る不思議な両者の影響力のねじれ現象を巻き起こしているようにも思える。
話が一気に本質的な部分に達してしまったのでここで私なりに、というか本連載なりに問題を整理しておく。現在まで続くモダン・ジャズ・ピアニストの直接の始祖がモンクとパウエルであり、両者は巨視的には音楽的盟友と言えるが「師モンク、弟子パウエル」ともみなせる。とりわけパウエルの演奏は多くのピアニストを魅了し、「パウエル派」と呼ばれる人脈を形成した。日本で言えば守安祥太郎や、その弟子穐吉(秋吉)敏子など。で、その穐吉の弟子が八木正生。パウエル一辺倒で人気もあった八木がある日モンクを聴いて彼の音楽的話法を探求する決意を固める。その成果の一つが六十年のアルバム「八木正生“セロニアス・モンク”を弾く」(原盤キング・レコード)である。その頃、駆け出しのピアニストだった山下は穐吉に直接の影響を与えたハンプトン・ホーズからの影響色濃いジャズを演奏しており、モンクからの影響をむしろ避ける方向に進んでいた。山下がモンクからの影響を屈折した形で表現するようになるのはずっと後で、この件については後述するが、ともあれ八木と山下が対談を行ったのは、そういう次第で「モンク的な山下」を八木が感受してからということになる。対談は1982年。初出は「話の特集」82年4月号であった。