テープ音楽の未来性
武満は八木に同時代のジャズを求め、八木もまたそれによく応えた。しかし、今回特に問題にしたいのは、八木がここに見られる武満の「現代音楽家としての側面」を吸収したことについてである。彼が既述「八木正生の世界」(東宝ミュージック、ポリスター)インタビューで「僕は本当はサウンド・ディレクターをやりたい」と語ったのもそれに関係があるだろう。改めて彼の言葉を聴いてみよう。「どんな写真でも色々やって遊べる所があるんですよ。やっぱり我々の仕事ってのは一つ一つが経験的な、実験をどっかに含んでいるし、それやってるのが一番面白いですね。(略)低次元だか高次元だかしらないけれども飯喰わなきゃなんないってことあっても、それ以外にも、フィルムに音つけるってこと、それも録音の状態は悪いし全体的に制約も大きくなっちゃうんだけど、でも面白いんですね。どっかで何か出来るんですね。とにかくこういう絵だからこういう音つけてみようかってやってみて、ひそかに一人でほくそ笑むってこと割り合いとありますね」。
実のところ、劇場用映画音楽に持ち込むことの出来る実験性というのはささやかなもので、そういう意味では『白い朝』のような例は幸福な例外だったはずだ。それは低予算だから、とか或いは低予算にも拘わらず、というのとは本質的に異なる事態であり、例えば東映の任意の劇映画の篇中にトーン・ジェネレーターで作った音響が唐突に響き渡ったなら、観客よりも上映技師の方が(プロジェクターが壊れたと勘違いして)蒼くなるのは明らかだろう。そこはやはり、それぞれの作品の置かれるべき「場」というものがある。『白い朝』が独立した短編映画として上映されるのが草月会館ホールだったのは、余りに適切な場所だったと言える。
例えば、奥山が草月会館の職員であったのは記してあるが武満が奥山の協力を得て(というよりも共同で、とするべきだろう)制作したテープ音楽「水の曲」。これは様々なシチュエーションで採録された水滴の音だけをモチーフにしたミュージック・コンクレートであり、60年にこのホールで勅使河原構成演出により観世寿夫の舞を伴って初演されている。初演を聴いていた粟津潔は「これはやはり、従来のコンサートとはまったく違うという印象でした」と「武満徹を語る15の証言」で語っている。「そう、能もありました。そういう古典芸能なんかも全部、近代の中にうまく入れて、そして、自分の感覚というものをとても大事にした作品でしたね」。そして彼は述べる。
水の音を録音するのに、深い井戸の底までマイクを下げてるでしょ。筒が長いんだよね。楽器としては最高の楽器なんだよね。この作品は、あの初演を聴いたとき、「音の大発明」をやっているなと思いましたね。デザインの世界でも、新しいメディアにあっても、媒体の中にある「自然」というものをもう一度見直していった方がいい。七〇年代僕はそんなことばかり考えていましたよ。
ミュージック・コンクレートにとってはマイクこそ楽器であり、ある意味、深い井戸もまた楽器である。だから煎じつめれば「自然」自体が楽器であり同時に楽音、「トーン」なのだ。いわば『白い朝』の「音声変調機」トーン・ジェネレーターこそは「この」時代の音響装置だった。