遥か彼方にゃ(フリージャズの最果て)オホーツク、その名も網走番外地
これを最後に山下と富樫が共に演奏することはなかった。「兆」の劇的な再会セッションまでは。さて、そういうわけでようやく『網走番外地』の話に戻りたい。お気づきかと思うが、富樫と山下が共演可能な期間というのは実際にはかなり短い。65年5月からの三カ月か、66年4月からのせいぜい二ヶ月に過ぎない。『網走番外地』第1作公開は65年4月18日で、まだ富樫カルテットは出来ていなかっただろう。3作目は同年10月31日公開でカルテットはもう解散している。すると可能性があるのは第2作『続・網走番外地』のみである。また66年分のシリーズではとりあえず合致する作品はないとして良いのではないか。名著「石井輝男映画魂」(石井輝男・福間健二著、ワイズ出版刊)から該当作の部分を拾ってみよう。
(福間)シリアスな第一作『網走番外地』のあとで、『続・網走番外地』はまるっきり違うんですよね。かなり急いで撮られたんですね。
(石井)もう急遽……。「あれ、二週間ないじゃないですか、セットも立たないじゃないですか」って言ったんですけど。ともかくやってくれって言うから、めちゃくちゃな……。準備といってもホンもめちゃくちゃですしね、大きなライトをもったまま北海道を右往左往するわけにいかないんで、函館で撮ったんです。
第一作の予想外の大ヒットを受け「脚本一週間、撮影二週間」という強行スケジュールで急遽製作されることになったシリーズ第二作『続・網走番外地』は、そうした事情のせいで他の作品とはかなり雰囲気が違う。インタビューに答えて石井は、このシリーズへの心構えとして物語のコンセプトを「意識的に一本一本変えたい」と思っていた、と述べている。「ぼくのは、意識的に社会性とか棄ててるってことがありますからね。だから物語として変わってないと、まったくね、成立しなくなっちゃう」。
しかし、ここでの雰囲気の違いは心構えの問題ではなく、あくまで製作の外的な条件によるものだ。一言で言うと、アッという間に作られた感じが画面からひしひしと伝わってくる。「(福間)函館と青函連絡船と、青森県の…」「(石井)ともかく乗っている間も、遊ばないで撮りながら行けるような感じで」。船で撮り、港で撮り、電車で撮り、病院で撮り、路上で撮り、まさにロード・ムーヴィーの趣き、その代わり網走番外地だけは出てこない。しかも前作と重要な登場人物が一部かぶっているにも関わらず「続き物」感がほとんどなく、盗品の宝石が土地から土地へ、人物の間を転々とするシチュエーション。悪く取れば行き当たりばったりなのだが、それが何故か良い方に作用して、世評の高い第三作『網走番外地 望郷篇』よりも今見るとずっと面白い。
第一作はヒットすると上層部から思われていなかったためにカラーから白黒に変更され、第二作は日程の都合で低予算を余儀なくされ、とそれぞれ理由は異なるものの「石井輝男らしさ」というか、彼の出自「新東宝スピリット」が試される作品。試されるというより、監督石井輝男じゃなかったら実現しなかった企画だろう。
そしてある時期の石井と組んで最も相性の良かった映画音楽家がジャズ・ピアニスト八木正生である。ただしちらっと書いたように『網走番外地』の音楽がジャズかというとそういうわけでもない。さらに述べるなら八木の映画音楽家たる所以というか作風自体特にジャズを前面に押し出してはいない。だが山下の最初に引いた言葉を気にしながら『続・網走番外地』の音楽を聴くと、前作や次回作よりはジャズっぽい音があふれていると思えてくるから妙である。もしもここでの音源を実際に作っていたのが「八木のディレクション下の山下、富樫」等だったとしたら、多分それは「強行スケジュール」のせいで八木がこの作品のために個別の音源を作っている時間がなかったためである。フィルモグラフィを確認すると『網走番外地』シリーズ最初の二本の間に6月27日公開の『蝶々雄二の夫婦善哉』(監督マキノ雅弘)を東映京都撮影所で担当しており(『網走番外地』は東映東京)、京都と東京を行ったり来たりしていたことがわかる。本作での八木と山下の出会いはいわばアクシデントだったのである。
ここまで書いてから気づいたが(従って今から書き直す気分にならない、ご容赦)、山下は富樫カルテットの一員として参加したとは一言も書いていない。八木が二人それぞれを別々に呼んで、二人がばったりスタジオで顔を合わせたとしたらカルテット結成以前でも、また考えようによっては「以後」でもあり得たかも知れない(さすがに先日ケンカしたからその気にならない、帰ります、とは言わないだろう)。その可能性を考慮に入れた場合、本稿は意味を失ってしまうのだ。状況証拠というにはあまりに脆弱な基盤に立っての物言いであった。確定とするのは止めておこう。