映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第39回 60年代日本映画からジャズを聴く   その1 網走番外地の三人、富樫、山下、八木正生
富樫カルテットの或る一日
このアルバムは正式録音で残された両者最初の共演だとされる(この件は後述)。しかし二人の会話からわかるように彼らは十五年前には一緒に演奏していたのである。この話についてはやはり圧倒的な分量で山下の言葉が残されているのだが、本人から引き出す前に第三者の証言を入れておこう。副島輝人「日本フリージャズ史」(青土社刊)である。

特に鮮明に記憶に残っているライヴが二つある。一つは六五年五月八日の富樫雅彦カルテットのフリー・フォームの演奏である。メンバーは富樫の他、武田和命のテナー・サックス、山下洋輔のピアノ、滝本国郎のベースだった。この演奏は多分日本で初めての本格的なフリージャズだったと思う。(略)このグループは、レコードにもテープにも全くそのサウンドの記録を残さないまま、僅か三ヶ月で解散した。幻にも似た伝説的な存在であった。夏の或る夜、オレオの一隅で涙を流す武田和命を相倉夫人の森文子さんが慰めている光景を、私は見てしまった。横に座る山下洋輔は暗い表情のまま憮然としている。何事かと近寄れないままでいる私のところに寄ってきた相倉久人が、ひと言「富樫カルテットが解散したんです」とだけ言った。富樫はその場にいるはずもなかった。

ちなみに副島の言うもう一つの特筆すべきライヴは65年11月16日、渡辺貞夫の演奏であり、その件も後で述べよう。
演奏場所はいずれも銀座のジャズ・ギャラリー8。山下洋輔の記憶では三原橋の近くの元「お若いデス」というキャバレーがあったところ。副島の著書には「ドラマーの宮川洋一が、彼の義父が所有しているビルの地下一階が長い間空部屋になっている」「そこをジャズ専門のライヴの場として使えないだろうか、と提案した」となっている。二つの証言が矛盾するものかどうかはこれだけではわからないので併記しておく。「そして'65年の五月頃には、このジャズ・ギャラリー8で、ぼくは、富樫雅彦カルテットに参加していた」。山下のエッセイ集「ピアノ弾きよじれ旅」(徳間書店刊)から引いている(現在では晶文社「へらさけ犯科帳 山下洋輔エッセイ・コレクション3」でも読める)。では引用。

富樫は既に、我々の間では伝説上のプレイヤーだった。(略)普通の曲でも、コードの制約は適時、無視して構わないとか、12音階のテーマを置くとか、何がしかの、銀巴里の方向(この件は後述)が保たれていたグループだった。また、好きなだけ自分のソロを続けてよい、というジャズの根本的な原則も実現されていた。(略)富樫はこの時二十五歳。十五歳のデビューからすでに十年経つ。(略)が、同い年位の共演者達の熱心ではあるが、覆いようのない未熟さに対して、先輩プレイヤーとしてある苛立ちはあったろうと思う。その苛立ちをまともに受け止めるだけの度量が恐らく、ぼくにはなかったのだ。(略)やがて音楽的、感情的行き違いが元に戻らない程に蓄積され、このグループは八カ月程で解散する。

多分「八か月で解散」というのは書き間違いか誤植だろう。八月頃に解散とするのが正しい。カルテットの録音は残っていないが、相倉久人によるレポートは一本ある。初出は月刊「ステレオ」誌65年7月号「レコードにならないジャズ」で後に著書「山下洋輔の世界」(ジャムライス他編、エイプリル・ミュージック刊)に再録された。この著作は78年末頃までの山下の音楽的経歴を知るにはうってつけなので、適宜使わせてもらう。

雨が降っている。日曜日(日付は記載なし。上島注)の“ジャズ・ギャラリー8”午後八時半。(略)バンドが「マイルストーンズ」を演奏している。ピアノのフリー・ソロ。或る時、富樫雅彦がいった。「山下のピアノはいいよなあ。あんなに音楽的なピアノを弾くやつはいないもの」(略)ソロはソロイストがいいたいことをいいつくすまでつづく。(略)最後はドラム・ソロ。富樫はデビュー当時から、天才の閃きをもったミュージシャンだった。だが、その才能をもってしても、かつて彼がこれほど密度の高い深みのある音楽に到達し得たことはなかったように思う。(略)「とにかく、ユーはすごいよ。いつもは自分を出そうとして演奏するものだけど、ユーとやってると、こっちの持ってるものを、とことんまで全部しぼり出されちゃうんだから」その日、演奏が終わったあと、彼に向かってそういったのは山下洋輔である。(略)演奏は延々一時間におよんだ。