新たなカメラマンの登場
この映画を撮影するにあたって、その機材をシャーリー・クラークから借りていることはカサヴェテスの証言にあった。小型映画、要するに16ミリ撮影機である。この点も重要だ。特にこれをもって「ニューヨーク派」の必要条件を定義する必要はないが、少なくとも現に16ミリで『アメリカの影』が作られているという事実は残る。映画の画面が発する美学を規定する条件として、この点は大きい。もちろんまず述べておくべきは、これによって製作のためのスタッフも小編成ですみ、セッティング一般も安く上がる、ということなのだが、それに加えるに機材がチャチなものであることによって、夜間撮影(光量、つまり撮影のための明るさが少なくて済む)、移動のスムースさ(機材が軽いから)、一目につきにくさによるゲリラ撮影(機材が小さいから)が可能になる、これが大きい。また画面自体の粗(あら)びた質感の面白さ、これも同じく大きい。
最後の点は意外に気づかれない点だが、例えば『仁義なき戦い 広島死闘篇』を見るとクライマックス、北大路欣也が追いつめられる場面で突然画面がザラザラな感触に変る。これはそれまで35ミリカメラで撮られていたのに、ここだけ16ミリカメラだからだ。念のために書いておくと35とか16とかいうのは画面の幅だからフィルムそのものが別で、一緒には上映できない。小型カメラで撮影された画面を35ミリの画面サイズに現像で引き延ばす(これを「ブロウアップ」という)作業の後、初めて一緒にかけられるようになる。画面が「粗びる」とはこれによって生じる感覚である。
世界映画史的に見ても1960年代とは様々な技術革新の時代だったと言える。とりあえず世界にまで風呂敷を広げるつもりはないものの、記しておいて良いのはアメリカ映画にあって撮影技術の改革、それに伴う画面ヴィジュアルの変化の一端は、上記の映画の撮影者から興ったという点なのだ。シャーリー・クラーク作品のカメラマンだったベアード・ブライアントと『イージー・ライダー』“Easy Rider”(監督デニス・ホッパー、69)の関係については遠山純生さんのホームページ
「MOZI」に詳しいので参照をお勧めしたい。そして『野蛮な眼』と『麻薬通りの監視』の撮影は60年代以降のアメリカ映画を代表するハスケル・ウェクスラーであった。ウェクスラーはまたウェンドコスの『エンジェル・ベイビー』“Angel Baby”(60)のカメラマンでもある。
多分、この時代、映画的に真に重要なのは演出家よりもスタッフ、つまりカメラマンや編集者や音楽家なのだ。もう一人挙げるなら『罪と罰USA』の撮影はフロイド・クロスビーで、ウェクスラーと同等あるいはそれ以上に重要だ。彼は『タブウ』“Taboo”(監督F・W・ムルナウ、31)のドキュメンタリー調撮影で映画史に登場する正統派だが、『野蛮な牡牛』“The Brave Bulls”(監督ロバート・ロッセン、51)、『真昼の決闘』“High Noon”(監督フレッド・ジンネマン、52)等の低予算でチャレンジングな作品に起用され、やがて『マシンガン・ケリー』“Machine-Gun Kelly”(監督ロジャー・コーマン、58)や「ビキニ・パーティー」映画と言われるエクスプロイテーション・ムーヴィーの専門家カメラマンになってしまう。
彼がいなければ、例えばコーマンを売り出したAIP映画は存続しえなかったはずだ。つまりフランシス・フォード・コッポラ監督やピーター・ボグダノヴィッチ監督、カメラマンのラズロ・コヴァックスやヴィルモス・ジグモンド等の人材がアメリカ映画に出現するための基礎を、こうしたニューヨーク派映画人が準備したのである。カサヴェテスが捲土重来というかリヴェンジを果たしたフィルム『フェイシズ』“Faces”(68)にはクレジットなしでウェクスラーが参加しているとする資料すらある。