映画と舞台のフリクション(摩擦力)
そういうわけで映画版の前に舞台の構成から語っていくことにしたい。吉田さんが書いているように映画の構造はヘンに屈折しているが、舞台というものは生身の人間が観客の目の前で演ずるという大前提、こればかりは崩しようがないので意外とあっさりしている。まずメインの主人公が四人、ソリー、サム、アーニー、リーチ。彼らはリーチの部屋で「麻薬の売人」(これを「コネクション」と呼ぶらしい)カウボーイがヘロインを持って帰ってくるのをジャズ・ベーシストと共に待っている。徐々に彼のジャズ仲間が集まりカルテット(四人組)となる。彼らもやはりジャンキー(麻薬中毒者)で、中毒者は占めて八名。さらに彼らジャンキーの生態を実験映画にしようとしてそのスタッフ、具体的にはプロデューサー、脚本家、二人のキャメラマンもそこにいる。ヘロイン代の出所がプロデューサーなのだ。
街路には取り締まり警官が出ていたらしく(これはそう想像させるだけ)、カウボーイはカムフラージュに救世軍の女を伴って帰ってきた。人の良さそうな老女である。こうして無事に彼らは麻薬を打つことが出来た(ただし、その直接の現場は多くの場合トイレで、無知な老女は何が起きているのかよくわかっていない)。生態は無事フィルムに収録されたが、ジャンキー達はプロデューサーに「俺達のことを知りたいなら自分でも打ってみなくちゃ」とそそのかしてヘロインを注射してしまう。ところがこれはあまりいい体験にならず、彼はダルくなって寝込んでしまった。その間にリーチがもう一度ヘロインをカウボーイにせがむ。麻薬がうまく効かなかったらしい。仕方なくもう一度だけやらせてやると、今度は一気に効いて失神し、一度はショックで死にかけるが何とか持ち直す。
寝込んでいた男が気力を回復した時にはこの一番劇的な生死の境目の場面は既に終えていた、というのが物語の骨子である。映画スタッフはすごすごと去っていった。カルテットは気分良く去る。そこに、冒頭にも現れてポータブル電蓄でチャーリー・パーカーのレコードをかけた唖の(それとも単に台詞がないだけか)青年が再び現れてもう一度パーカーをかける(「マーマデューク」とも「ブジー」とも言われるが、どちらが正しいか現時点では不明)。
以上は原盤ライナーノーツでアイラ・ギトラーがまとめている舞台構成。たいへんわかりやすい。むしろ古典的な戯曲と言える。構成上ヘンなのはジャンキーを見つめる映画人達の存在で、彼らは、自分達の映画のためにジャンキー達のモノローグを収録する必要から彼ら各々に言いたいことを順次語らせる。時折現れるこのパートを「劇中劇」とギトラーは呼んでいる。舞台を私は見ていないからよくわからないが、多分スタッフ立会の下でキャメラマンに向かって一人ずつ台詞をしゃべる(激情的に感情を爆発させる、とギトラー)建前にしてあったはずだ。そして練習がてら兼ひまつぶしにセッションを繰り返すジャズメンの存在も可笑しい。俳優であり音楽担当者でもあり、という中途半端なキャラクターが舞台演劇というメディアのアイデンティティを保証しつつはぐらかす。
つまり、舞台で演劇が上演されている状態というのは、その日その舞台だけの一回性が特徴だが、言うまでもなくそこで語られている台詞は前日と同じである。そうじゃない場合もあるだろう(とちったり、途中で演出が変更されたり)が「同じだという前提」は確立している。一方ジャズの現場というのは、同じ曲(テーマ曲)でもアドリブは違って当然だから、この舞台でもジャズメンはそのつもりで演奏していたはずだ。「俳優兼音楽」という彼らの立場は従って「再現芸術の一回性」という特徴を根幹においては踏襲しつつ、それぞれの差異を露呈させることにもなったのである。
この戯曲の映画化に意欲を燃やしたのがシャーリー・クラークとルイス・アレン、というニューヨークの独立映画作家達だったのは幸いであった。というかハリウッドのアーサー・フリードじゃなくて良かった。フリードだったら主人公の「リーチ」と「救世軍」はジョージ・ペパードとレスリー・キャロンだったわけで、ラストは息を吹き返したペパードとキャロンの熱いデュエットになっていたところである。
シャーリー・クラークについては次回述べるとしてもう一人の製作者ルイス・アレンは、この同じ発表年、ある意味もっとチャレンジングな企画を映画化している。『ザ・バルコニー』“The Balcony”、ジャン・ジュネの戯曲の映画版である。監督はジョセフ・ストリック。舞台は同時代のロサンゼルスの映画スタジオに変更されている。面白いという映画じゃないが、映画化されたという事実自体が面白い。しかも主演は何とピーター・フォーク、リー・グラント、レナード・ニモイであった。脚本がベン・マドウでそうなると私も色々語りたくなってしまうが、本稿と離れてしまうので止めておく。
人脈的に興味深いのはこの舞台版『ザ・コネクション』と同時期にクラークの盟友ジョナス・メカスの起用したスタッフ、キャスト陣である。メカスの長編劇映画処女監督作『木々の大砲』“Guns of the Trees”(61)には舞台『ザ・コネクション』でプロデューサーを演じたレナード・ヒックスと美術のジュリアン・ベックが参加し、短編映画『営倉』“The Brig”(64)には舞台で主人公リーチと唖の青年に扮したウォーレン・フィナティとヘンリー・プローチが出演しているのだ。映画史的にニューヨーク派と言われる潮流にあっても、このへんの実験映画系独立作家達は幹というより細い枝葉の先の部分についた毛虫くらいにしか認識されていないが、リヴィング・シアター系の舞台から独立映画へ、という『ザ・コネクション』に典型的な一つのあり方に絡めて、こうした細部が見えてくる。
さて、問題の映画版『ザ・コネクション』である。物語はオリジナルをきちんと踏んでいる。ただし「プロデューサー」と「脚本家」は一人の「映画監督」にまとめられているようだ。演ずるのはレナード・ヒックスではなくウィリアム・レッドフィールド。この変更は全く問題なく、むしろ合理的なものだと言える。この映画を野心的な実験映画であると同時に根幹的な失敗作にしてしまったのは、演劇的に極めて便利な「誰のものでもない視点」をあっさりと放棄して映画全体をキャメラマンの一人の視点に限定し、彼が撮影していた「フィルム・フッテージをつないだ物」ということにした点である。
この視点の限定は確かに面白く、クラークとルイスがオリジナルの舞台を映画にしたらどうだろう、とひらめいたのが彼ら「舞台上のキャメラマン」の存在だったに違いないとたやすく想像されるところだが、こういうつけ焼き刃の構成は最終的には必ず矛盾することになっている。矛盾というか、要するにどこまでそれを厳密に行っても結局「そういう設定の劇映画」に過ぎないわけだ。劇映画だという前提自体が否定されていたら上映される根拠もないのだから。「根幹的な失敗作」とはそういう意味である。だが、根幹的には失敗作たらざるを得ないからといって、つまらないとは限らない。これはそんな映画だと言える。
面白さの一つ目は、あるキャメラマンが見ている世界という限定によってドキュメンタリー的な側面とフィクションとが混在することになる点だ。「ジャンキーの生態を記録しようとする画面」ではキャラクター一人一人が画面に向かって思いを吐き出し、それとは別に、彼らのオフ・スクリーン、「生態観察映画を撮影されていない素の部分」をもキャメラは捉える。この区別は見ていればある程度はわかるが、どんなにわかっても同じ一人のキャメラマンが撮影しているわけだから最終的には区別自体が無意味になる。オリジナルの舞台は「劇中劇」としてきちんと成立するが、映画版は、視点がある個人の物と限定されたことにより逆に「映画内映画」が破綻する仕掛けになっている。この破綻自体が面白いのだ。
そしてもう一つ面白いのは、これはきっと舞台版を見た観客ならばなおさらそうだったろうと思うのだが、舞台に観客が参加したような感覚をこのキャメラは醸しだすのである。映画というのはそもそもそういうメディアである。しかしキャメラマン(に扮した役者)が動き回っていた舞台と比較されることで、そこに観客が同化することを容易にする。しかもそのキャメラで捉えられていたのは名だたるジャズメン、ジャッキー・マクリーンを始めとする四人組である。これがたまらない魅力。現在では映画『ザ・コネクション』はマクリーンとフレディ・レッドの動く映像を見られることでジャズ・ファン垂涎作となっている。