長編デビューまで
シャーリー・クラークはポーランド系移民の三世で、ユダヤ人。裕福な家庭に育ち、幼いころからダンスを志したが、厳格な父はそれを禁じた。結婚によって父の支配を脱し、コレオグラファーを目指すも夢は実現せず、彼女の関心は、映画に向かう。ダンスを映像として撮るのだが、ただの再現ではなく、それを編集技術によって変化させるのである。最初の短編『陽光の中のダンス』Dance in the sun(53)では、ダンサー、ダニエル・ナグリンがスタジオで踊り始めるのだが、しばらくすると、音楽とダンスはそのまま、ダンサーが野外に出る。かと思えば再びダンサーはスタジオに、と、野外(ダンサーは次第に浜辺に近づいてゆく)とスタジオ内のダンスのモンタージュになる。『パリの公園で』In Paris parks(54、筆者未見)を経て、『愛の瞬間』A moment in love(57)もダンス映画。今度は野外で踊る男女二人を捉える。今回は二重焼きつけが用いられ、ダンサー二人が、雲の上や、水面で踊っているように見える。ダンサーたちの映像が重ね焼きされて、二重三重に見えたりもして、ここでクラークは、映像自体をダンスにおける身体のような素材として、編集によって振付をしているわけである。ちなみに、この二作品を含むシャーリー・クラーク短編集を、前衛映像を集めたフランスのサイト
UBUで観ることができる。これを観れば、クラークの初期から後期までの作風の変化を、大筋見てとることが可能だ。
その短編集で次に入っているのが『ブリッジズ・ゴー・ラウンド』Bridges-go-round(59)。ここではダンサーは姿を消し、車窓から捉えられたマンハッタンの橋の映像を素材に、橋梁などの幾何学的図形が舞踏を繰り広げる。ダンサーなきダンス。クラークはベルリン生まれの抽象映画の巨匠ハンス・リヒターにも教えを請うていたことがあり、これはアメリカにおける抽象映画の一つの成果である。これは元々、58年ブリュッセル・エキスポの展示作品『ブリュッセル・ループス』Brussels Loops(58)のための素材の一部を使用したもの。ちなみにこの時のブリュッセル・エキスポで金賞を受賞したのが、映像と演劇、ダンスを組み合わせたチェコの「ラテルナ・マギカ」(幻燈)で、これには、イジー・トルンカ、ヤン・シュワンクマイエルの外、ミロシュ・フォルマンらも関わっていた。それはともかく、この『ブリッジズ・ゴー・ラウンド』には、電子音版とジャズ版の二つのサウンドトラック・ヴァージョンが存在し(映像はまったく同じ)、この二つを合わせて一つの作品としている。電子音はルイスとベベ・バロン夫妻による(56年に『禁じられた惑星』の音楽を担当)。ジャズはテオ・マセロによる。マセロはマイルス・デイヴィスがモード奏法に移行した『カインド・オブ・ブルー』(59)、エレクトロニック・ジャズに転換した『ビッチェズ・ブリュー』(70)など、マイルスの作風の変化を画する作品のプロデューサーとしても知られる。この選択を見ても、クラークが音楽についても相当な知識、見識を持っていたことが伺われる。
クラークがその後撮った映画には『摩天楼』Skyscraper(60、筆者未見)、『怖い時間』Scary time(60)がある。後者は上記
UBU短編集で見られる。ユニセフの委嘱によるもので、ハロウィーンで仮装してお菓子をもらう子供たちを描きつつ、飢えて腹の膨れたアジア(とりわけベトナム)やアフリカの子供たちがモンタージュされる。ここにはこれまでの映画には見られなかった政治性が感じられる。クラークが、どのような形で政治に関心を持ち、それに目覚めて行ったのかはよく分からないのだが、ただ政治性といってもクラークの場合、映画の中で声高に政治的主張がなされるわけではない。以後の長編にしても、専らマイナーな人物たちの描写を通じて、観る者に何かを感じさせようとするのであって、例えばユニセフによる明確な政治的主張の強い『怖い時間』にあってすら、クラークは各国の踊る子供たち(その中には日本も含まれる)の姿を捉えずにはいないのである。主張よりも描写を優先しているが故に、クラークは、政治的情勢が変わった現在でも見るに耐える映画作家であり続けているのではないだろうか。