海外版DVDを見てみた 第2回『ライオネル・ロゴージンを見てみた』 Text by 吉田広明
ライオネル・ロゴージン

『バワリー25時』のレイ

『バワリー25時』のドク
ライオネル・ロゴージンの長編三本が収められたDVDボックスがフランスで2010年の四月に発売されている。『バワリー25時』On the Bowery(57)、『帰れ、アフリカ』Come back, Africa(59)、『良き時代、すばらしき時代』Good times, wonderful times(66)。フラハティにつながるドキュメンタリー作家であり、また五十年代から六十年代に勃興したアメリカ・インディペンデント映画の重要人物であったロゴージンだが、その作品自体は長らく見られないままであった。日本で公開された作品は『バワリー25時』のみ(65年にATG新宿文化で、ジョン・カサヴェテスの処女作『アメリカの影』と同時上映)。この一本のみによって評価されてきたロゴージンだが、DVDという形でではあれ、ようやくその作品の全体像を見通すことができるようになったわけである。

『バワリー25時』
『バワリー25時』は、冒頭から人を震撼させる。ニューヨークのバワリー地区の路上。道端に寝ている男たち。ダブダブのズボン、ぼろきれのようなシャツ。シャツすら着ておらず、上半身裸のものも少なくはない。足に靴を履いていないものもいる。浮浪者が寝ているのか、とも思うが、浮浪者ならば段ボールを敷くとか、新聞紙を被るとか、していそうなものだ。起き上がろうとして、上半身をフラフラさせているものがいる。酔っぱらっているのだ。彼らは、酔っぱらって、そのまま路上で眠ってしまった人々なのである。

この映画が描くのは、バワリー地区の酔っ払いたちだ。彼らは、朝、バーが開くや否や、バーに惹き込まれるように入り、席に着く。金があれば直ぐに飲み始めるが、金がなければ、誰か金を持っている奴が来るのを待つ。金を持っているものは、不文律のようにワインやウィスキーをボトルで買い、皆に回す。そうやって日がな一日、酒を飲んで暮らし、夜が更けてバーが閉まれば路上に出て、そのまま倒れ込んで眠ってしまうのである。

映画は、バワリーに紛れ込んできたレイという男を狂言回しとして配し、彼の数日間を追う形でバワリーの人々の生態を描く。レイは、まだ働く意欲を失っていない男だが、昔は医者だった(本当かどうか分からないが)のでドクとあだ名される初老の男にバワリーを連れ回されるうち、次第にバワリーの魔力に取り憑かれていく。酒を断とうと、素面で一晩を過ごさねばならない救世軍に行くが、酒が恋しくて出てきてしまう。文無しになったレイは、バワリーを出て行きたくとも出て行けない。金さえあれば、ここを出てシカゴに行き、新しい人生を始めるのに、というレイに、ドク(彼もまた、バワリーから出られなくなってしまった男の一人であった)は最後の希望を託す。レイから奪ったスーツケースの中の腕時計を質屋に入れ、その金をレイに渡すのだ。レイはこの街を出て行けるのか。それともその金でまた飲み始めるのか。映画は結論を出さないまま終わる。

バワリーで映画を撮ることにしたロゴージンは、ちょうど映画のレイのように、ゴードン・ヘンドリックスという男と知り合う。彼こそがまさに劇中でドクを演じた男だ。ゴードンを導き手に、バワリーの人々の生態を観察したロゴージンは、先ず作家で映画評論家、シナリオ作家のジェームズ・エイジーにシナリオを依頼するが、エイジーは既に死期が近かった(55年、心臓麻痺で死去、アルコール依存と鬱に悩まされていた)。グリニッジ・ヴィレッジで知り合った作家のマーク・サフリンとカメラマンのリチャード・バグリーと共に、57年、シナリオもなく、撮影を開始したが上手くいかなかった。ここでレイという人物を主軸に配し、物語を導入して、即興で台詞を作りながら撮影する形に変更すると映画は上手く回り出し、三ヶ月で撮影を終了した。編集はカール・ラーナー。本作と同年にシドニー・ルメットの『十二人の怒れる男』を編集した編集者だ。

本作において、リチャード・バグリーが果たした役割は大きいように思う。バグリーは、本作以前では、シドニー・メイヤーズ監督の『口数の少ない奴』The quiet one(48)のカメラマンとして知られている(この映画はネット上で見られる。)。母親に捨てられ、祖母に虐待され、心を閉ざした黒人少年が、施設の中で、いかに他者への愛情と関心を取り戻してゆくかを描いたこの映画の前半に、学校をさぼった少年が、スラムをうろつく場面がある。仕事に出かけるものたちが出払った後の弛緩した時間。幼児の手を引いて路上をうろつく老人、玄関口で井戸端会議する主婦たち、何故か鶏を抱えてなでている男、氷屋、床屋、廃墟の瓦礫でままごとをする女の子たち。ある意味醜いものを捉えていながら、それが飽くまで人間的なものである以上持っている美しさをも滲み出させているドキュメント。それは、『バワリー25時』におけるバワリーの街や人々の肖像に通じている。とりわけ、『バワリー25時』のラストで見られる人々のクロース・アップの数々は、まるでウォーカー・エヴァンスが撮った、大恐慌時の南部の農民のポートレート(『Let us now praise the famous men』36)のように、恐ろしくも美しい。リチャード・バグリーはこの映画を遺作に亡くなっている。ちなみに、『口数の少ない奴』のシナリオおよび『Let us praise the famous men』のテキストを書いているのはジェームズ・エイジーである。ジェームズ・エイジーのようにアルコール依存に苦しむ人々を描き、実らなかったものの、エイジーにシナリオを依頼し、エイジーがテキストを書いた写真のように、醜さの中の美しさを拾い出した映画。そう思えばこの映画は、ジェームズ・エイジーの影の下で撮られた映画だったとも言えるだろう。