海外版DVDを見てみた 第28回 マルセル・レルビエのサイレント映画 Text by 吉田広明
マルセル・レルビエ

『エル・ドラドオ』ポスター


『エル・ドラドオ』シビラと息子

『エル・ドラドオ』息子の病室

『エル・ドラドオ』一堂に会する登場人物たち
前回前々回に引き続き、フランス戦前期の映画について。今回はマルセル・レルビエのサイレント映画(と言ってもDVDで見ることが出来た四作品)。レルビエはトーキー以後も映画を撮っているが、ジャンル映画(ガストン・ルルーの推理小説の映画化が有名)が多く、レルビエ本人も自分の最良の作品はサイレント期にあると思っていたようである。前回のアベル・ガンスの作品も長大だったが、今回もまた長い。『エル・ドラドオ』こそ一時間半だが、『人でなしの女』は二時間少し、『生けるパスカル』は三時間弱、『金』は二時間四十五分(ちなみにすべて日本公開されている)。無論この時期のフランス映画がみなこのように長いわけではないが(グレミヨンもエプスタンもヴィゴも、長編はむしろ比較的短い)、ガンス、レルビエというフランスのサイレント期を代表する作家の長大さというのは、この時期のフランス映画の特色を示す兆候でもあるだろう。その点はまた後に触れることになる。

エル・ドラドオ
マルセル・レルビエは1888年パリ生まれ。オスカー・ワイルド、ヴィリエ・ド・リラダン、フリードリッヒ・ニーチェ、モーリス・バレスを好む彼は、17年に詩文集を出版し、文学者としてデビュー。『死者の出産、紫と黒と金の奇跡』なる処女戯曲は、エドゥアール・オータンとルイーズ・ララ夫妻によって演出されるが、この二人から生まれるのが後の映画監督クロード・オータン=ララ(初めて知ったがオータン=ララは両親の名前を合わせたものだったわけだ)。ちなみにこの時の主演女優が『エル・ドラドオ』に主演するイヴ・フランシス(彼女は当時最も先鋭な映画批評家であったルイ・デリュックの妻でもある)。またレルビエはクロード・ドビュッシーを崇拝、作曲もしていた。映画監督にならなかったら、文学者ないし音楽家になっていただろうと述べている。アイデンティティを失い、新たな生活を始める男を描く『生けるパスカル』は、別の自分になりたい願望の表れという意味で、自画像なのだという意味の事もインタビューで述べている。

映画に携わるようになったのは、第一次大戦中、映画班に配属されてからで、その頃、セシル・B・デミルの『チート』(16)を見て衝撃を受けている。この二点においてアベル・ガンスと共通する。ガンスにおける『チート』の影響は必ずしも明示的ではないが、レルビエに関しては、エキゾティシズム(『エル・ドラドオ』)、金の力で女を自由にしようとする男(『金』)など、明確に見て取れる。レルビエは詩的なプロパガンダ映画『ローズ=フランス』(19)で初監督。現在容易にDVDで見られる長編として、バルザック原作の『海の人』(20)がある(フランス版で『エル・ドラドオ』と二枚組)が、筆者は未見(『エル・ドラドオ』単体版が先に出たのでそちらを所持)。

『エル・ドラドオ』(21)は、レルビエのオリジナル・シナリオに基づく。「マルセル・レルビエによるメロドラマ」と副題がつく。シビラ(イヴ・フランシス)はアンダルシア地方のクラブ、エル・ドラドオ随一の人気を誇る踊子だが、彼女には病気の息子がいる(シビラの踊りの場面はオレンジの染色、息子のいる地下室はブルーの染色。これはレストアの際、レルビエのシナリオの指示通り染色し直されたもの。病気の息子のいる地下室の壁には、巨大な十字架が架けられてあり、異様な印象)。その父親は、実は富豪であり、シビラは彼に誘惑されて一児をなしたものの、その後富豪は彼女を捨てたのであった。シビラは男に援助を歎願するものの、全く省みられず(男は、彼女の送った手紙に、バツ印だけ書いてそのまま送り返す)、屋敷に押しかけるが追い払われる。折からその夜は、男の娘(マルセル・プラド。プラドはその後レルビエと結婚する)と没落貴族の婚約披露パーティが開かれていて、しかし娘は家を抜け出して、北欧から来た画学生(ジャック・カトラン)の恋人と密会していた。シビラは腹いせに彼女らを閉じ込め、しかしこのためパーティは台無しになり、二人にとっては結果オーライ、シビラは二人をエル・オラドオに導き、そこで姉弟の名乗りがなされる。芸術家は、弟を姉共々北欧に招いて治療させることを約束。一人になったシビラは、舞台で踊りながら、ナイフを胸に突き立てて自殺する。

『エル・ドラドオ』アルハンブラ宮殿のパティオ前のシビラ
 アンダルシア地方で自由に撮影の許可を得ていたといい、プラドとカトランが初めて出会う場面は、アルハンブラ宮殿、特にそのパティオで撮られている。シビラが富豪の男の家を訪ねる日は祭りの当日という設定で、聖母マリアの山車のようなものが町を練り歩き、ジタンたちが踊るのだが、それは仕込みではなく、ドキュメンタリーとして撮られている。スラムなども映されていて、そのリアリズムは映画のメロドラマ性とも実は齟齬を来しているし、レルビエの他の作品を見る限り、むしろ作り物であることを殊更強調するような作品の方が多いのだが、その違和感は必ずしも悪い方向に働いていない。失意のシビラは帰り道、巨大な白壁の脇を歩くのだが、仰角気味でトラック・バックしながら捉えられるシビラは、巨大な白の中に呑み込まれるように見える。この映画では時に登場人物が心理的にショックを受けてその視界が歪むという描写があるが、そのようなサイレント映画にありがちな視覚的技巧以上にむしろこのようにロケ地をうまく生かした場面の方が、ヒロインの心的状態を巧みに表現している。

 また本作では、字幕が、例えば十字形に配されていたり、マラルメの『骰子一擲』のようなグラフィックな配置がされていたりする。『海の人』でも、画面を斜めに区切って、半分が映像、半分が字幕、というような画面があったりするようで、無声映画の時期にはよくあったことだが、字幕自体を映像として見せる実験もしていたようである。字幕も、そのほとんどが台詞ではなく語りであり、これはガンスの稿でも書いたことだが、台詞と画面を見て、見る者が頭の中で物語を作ってゆくよう促すアメリカ的な語りとは一線を画した字幕の在り方だ。

『エル・ドラドオ』カヴァルカンティのデザインになるドレス
 レストアされた版が収められたDVDには、当時つけられていたスコアが収められている。本作は、世界で初めて、出来上がったイメージに合わせて映画音楽が付けられた映画だそうで(サイレントが大抵そうだったように、映画館で、即興ないし有り物の楽譜で演奏された伴奏音楽ではなく)、作曲者はマリウス=フランソワ・ガイヤール、当時二十歳そこそこだった(1900年生れ)。また本コラムの第9回で触れたアルベルト・カヴァルカンティも本作にシビラの衣装デザインで参加している。以前カヴァルカンティについて書いた際は資料に当たらなかったが、その後Ian Aitkin著Alberto Cavalcanti : Realism, Surrealism and National Cinemas(00)を入手したのでそれに基づいてカヴァルカンティの初期について前回触れ得なかった部分をこの際補足しておく。カヴァルカンティはブラジル出身、ジュネーヴとパリ(エコール・デ・ボザールとソルボンヌ大)で建築、美学を学ぶものの、学業は途中で止めている。カヴァルカンティはその後国際的に活躍するにあたって、ヨーロッパの建築、美術、映画、等々に関する広範な知識の持ち主として頼りにされるわけだが、そうした知識はもっぱら独学で身に着けたものであった。一旦帰ったリオ・デ・ジャネイロでレルビエの『ローズ=フランス』を見て感銘を受けたものの、セット・デザインの貧弱さに不満を持ち、その旨を書いた手紙をレルビエに送っている。レルビエはカヴァルカンティにパリに来て、自分の下で働かないか、と返信するが、その際は実現しなかった。ブラジルで建築家になろうとして失敗、イギリス、リヴァプールでブラジル大使館に外交助手の職を得て一家で引っ越す。ただし、大使ダリオ・フレール以外の同僚たちと全く気が合わず、鬱屈したカヴァルカンティは映画館で時を過ごすようになり、この頃から本気で映画を職業にすることを考え始めたという。父がリヴァプールで死去、その頃自身の会社シネグラフィックを設立したレルビエが、再びカヴァルカンティを慫慂する。大使ダリオは、一年間やってみて、ダメだったら戻ってくればよい、給与は一年そのまま払うという寛大な条件を出して、カヴァルカンティのパリ行きを許したのである。カヴァルカンティは以後25年の『生けるパスカル』までのレルビエ作品に関わり、その現場で映画の実務を学んでゆき、26年の『時の他何物もなし』を監督、若手前衛映画作家として認められるに至るのである。ガイヤール、カヴァルカンティに限らず、若手を積極的に起用する、というのはレルビエの生涯にわたって見られるもので、『金』の撮影の際、その後インディペンデントの映画作家となるジャン・ドレヴィル(当時二十歳をいくつか超えた程度で、一本の映画もまだ撮ったことがなく、編集作業すら経験がなかったという)にメイキングを撮影させている(後述するが、『金』のDVDに付録として収められている)し、フランスの若手映画人育成に大きな貢献をしているIDHEC(国立高等映画学院、現在はFEMIS)の創設者でもある。