海外版DVDを見てみた 第9回 カヴァルカンティの『私は逃亡者』を見てみた Text by 吉田広明
イーリングでの長編
カヴァルカンティがイーリングで撮った長編は、『昨日はいかに?』Went the day well?(42)、『シャンペン・チャーリー』Champagne Charlie(44)、『悪魔と寵児』(47)の三本。うちチャールズ・ディケンズの『ニコラス・ニクルビー』の映画化である『悪魔と寵児』は日本でもDVD化されていて容易に観ることができる。『シャンペン・チャーリー』はイギリスでDVD化されているものの、筆者はこれを観ていない。上記『英国コメディ映画の黄金時代』の作品解説によれば「一八六〇年代のロンドンを舞台に、ミュージックホール同士の(そしてそれぞれが抱えるスター芸人たちの)ライバル関係を描くコメディ・ドラマ」。『昨日はいかに?』は戦争プロパガンダ映画。戦争期にイーリングは、いかに国民がまとまって事に当らねばならないか、を主題とする戦争映画を作ることになる。その傾向を代表するのが二つの三部作だ(三部作として作られたわけではないが、おおむね主題を共有する三作品のセット)。敵がどれだけ我々の間近にいるか、だからこそ自己満足的安心感や、自分は戦争屋ではないから知ったことではないというアマチュアリズムを捨てねばならないと訴える三部作(その中に『昨日はいかに?』が入る)、および少人数のチームが、身分の上下を超えて緊密に結びつき、困難な任務に成功する姿を描く三部作(上と同じ意味での三部作。すべて43年の『船団最後の日』、『火災ベルは鳴る』、『九人の男』、これはどれも「非凡な出来」だそうだ)。

『昨日はいかに?』のポスター
『昨日はいかに?』は、イギリス軍に化けて小村に潜入したドイツ軍小隊を、初めは呑気に歓迎していた村人が、その正体に気づくや、一致団結して反撃、撃退する、という物語。村人のなかの内通者と小隊長との会話によって、我々観客には早々に事態が知らされ、それによって、既に知ってしまっている我々と、まだ事態に気づかない村人とのギャップがサスペンスを構成する。軍人たちがメモの裏側に賭けトランプの得点を書いておくのだが、それがイギリス風と違うとか、持ち物にドイツ語表記のチョコレートがあるとか、そういった事実によって彼らの正体はほのめかされてゆくのだが、それが決定的な疑いにはなっていかない。結局、正体を知られたと思ったドイツ軍が自ら正体を明かして、村人を監禁することで事態は急展開を迎えることになる。しかしそこからが実はこの映画の本領であって、監禁された村人が外部にいかにドイツ軍の侵入を知らせることができ、援軍を招致できるのか、が焦点となる。しかしこの映画の面白いところは、村人の努力がことごとく潰されてゆく点だ。村人は教会に集められるのだが、司祭は黙って指示に従えというドイツ軍の命令に毅然たる態度で反抗し、ドイツ軍の侵入を知らせる合図となる鐘を鳴らす。しかしにも関わらず、村の防衛をつかさどる国土防衛隊はそれを聞きながらも、その際にどうすればいいか訓練を受けていないからと無視する(彼らはその後ドイツ軍に射殺される)。また外部との唯一の連絡口となっている電話の交換手である老夫人は、傲慢なドイツ兵に食事を出した際、コショウを浴びせ、苦しむところを斧で殺害する(彼女は泣きながら斧を振り下ろす。この泣きながら、というところが凄い。これまでそんな暴力を振るったことのない彼女にとって、この行為は彼女の感情の域を超えてしまっている。それでも彼女は自分を奮い立たせながらこの行為をなすのである)。そうして彼女は急いで隣村に電話をするのだが、隣村の交換手は同僚と無駄話をしていて電話をつながない。そうこうしているうち新たなドイツ兵がやってきて、彼女をあっさり殺してしまう。結局外に通報することに成功するのは、村の子供たちの中でも厄介者扱いされていた少年であり、その友人である密漁者の老人なのだ。村人は最後の最後まで村に内在する内通者に気づかないし、努力はその大半が無駄になり、成功するのは村の周辺人物にすぎない、というこのアイロニカルな展開。この映画は無論英国民に戦争への心構えを訴えるプロパガンダであることは間違いないにしても、それでもずいぶん暗いという印象がある。この当時のイーリング戦争プロパガンダを大して観ていないので全体にそうなのかよく分からないのだが、どうもこうした暗さはカヴァルカンティ特有のものなのではないか、と、彼のその後のイギリス映画を見ると思えてくる。


『夢の中の恐怖』腹話術師のエピソード
カヴァルカンティは、チャールズ・フレンド、バジル・ディアデンの初期作に製作補としてつき、また、その二人に加え、チャールズ・クライトン、ロバート・ヘイマーと共にオムニバス映画『夢の中の恐怖』(45)を作る。彼らは皆、その後のイーリングの最盛期を担う監督たちである。『夢の中の恐怖』については既に日本版DVDも発売されており、容易に観ることができる。カヴァルカンティが監督しているのは、クリスマス・パーティでかくれんぼをした際、隠し部屋に入り込んでしまい、そこで寝付けなくて姉を求めて泣いている少年に出会うが、実はその部屋で姉が弟を殺したという事件が昔あった、という「クリスマス・パーティ」のエピソードと、腹話術師の人形がまるで自分の意思を持ったかのように勝手にしゃべり始め、腹話術師は彼を破壊し、心身喪失に陥るのだが、彼の話す声が人形の話し方そのものになってしまう(人形に魂があり、腹話術師がそれに乗っ取られたのか、それとも腹話術師の二重人格なのかは曖昧なまま)、という「腹話術師」のエピソードの二つ。この映画はイーリングには珍しいホラー映画なのだが、上掲『英国コメディの黄金時代』によれば、この映画は、イギリス的な心性である感情の抑制をはねのけて、人間の秘められた暗い情念を描く可能性の一端を開いた映画だった。これによって、多分に性的な色彩を帯びた、秘められた欲望とその葛藤を描くという、新たなイギリス映画を生みだすこともできたはずなのだが、イーリングは、あるいはマイケル・バルコンは、そうした可能性を抑圧してしまう(しかしそれゆえにこそ、あのイーリング・コメディの傑作群が生まれたわけでもある)。カヴァルカンティにはそうした嗜好性があり、バルコンのもとでその可能性の追求は無理だと判断したのか、彼はイーリングを去り、フィルム・ノワール『私は逃亡者』を撮ることになるのだ。